さとびこ編集室日記|100年住みたいのは自然にも人にもやさしい地域

自然と人のつながりを地域に根ざして考える奈良発ローカルマガジン「さとびごころ」を編集する「さとびこ編集室」より、日々の活動のことやお知らせ、雑談を綴ります。 雑誌づくりを通して、自然にも人にもやさしいあり方をみなさんとともに考えます。

2021年11月

ついに、12月になりました。
わたしの誕生日ももうすぐです。それはいいですね。

その前に。
11月の最後に。
さとび旅をしました。



「森と出会った縄文人」というタイトルを見てしまったら、行くしかないと思っていた特別展。
福井県小浜市にある福井県立若狭歴史博物館へ、最終日にギリギリセーフで行ってきました。

さとびごころvol.36で「縄文の奈良」を特集してから、いつか「その2」をやりたいと考えながら、すでに3年もたってしまいました。それでも諦めておりませず、この展示にも興味をそそられたのです。

展示の最終日に合わせて計画を部員さんに立ててもらいました。
部員さんは、旅行の計画を立てるのが大好きで、またうまく考えてくれるんですよ。
以前から「行きたい行きたい」と行っていた神社も、「わりと近いからついでに行こうか?」と組み込んでくれて、しかも「再び行きたい行きたい」と行っていた池田町という自然豊かな町の、会いたい人にも会うことができました。

初日

真名井神社
お昼ごはん(海鮮料理のレストラン)
若狭歴史博物館
ホテル着(越前市武生)経費削減のためリーズナブルなホテル。なのに、清潔!よかったです。
焼き鳥の店(福井県民のソールフードと呼ばれる「秋吉」)

二日目

池田町へ
お昼ごはん(池田町のお蕎麦やさん)
せっかくなので武生の町をプチ見学

というスケジュール。
この中からさとびに関係あるのは博物館ですが、別途池田町のお話も紹介させていただきます。

若狭歴史博物館は、今年5月にも一度訪ねました。その日の本命は、鳥浜貝塚の展示たっぷりの「若狭三方縄文博物館」でしたが、その前に立ち寄った場所です。


今回は、その鳥浜貝塚の発見60周年記念イベントとのことでした。

5月にゲットした同館のパンフレットに、この記念イベントの紹介がありました。


 

今からおよそ1万5千年前、縄文時代が始まった頃のこと。日本列島の植生は、氷河期の慣例な気候に育つ木々から、より温暖な気候に育つ木々の森へと大きく変化しました。それからおよそ9千年の間、鳥浜の地に遺跡を残した人々は、移りゆく環境のなか、植物とどのように関わったのでしょうか。現代人もおどろきの植物利用の様子をご紹介します。

 
チラシはこちら

21-11-28森と出会った縄文人

入り口にドーンとカゴの出土品が置いてありました。展示品の撮影はNGでしたので、残念ながら展示品の写真はございません。

今でも、農作業に必須な道具として箕(み)がありますね(ほとんどがプラスチックですけど)。
み
ウィキペディアより

ついこないだ、昭和の時代まではあたりまえに使われていました。
ここに、縄文が見えます。

展示されたカゴの編み方は、現代にそのまま通じるもの。
ずっと、ずっと、この伝統が現代にまで受け継がれてきたのですよね。蔓性の植物も多用されていました。もちろん木材も。

今では工芸品として残っていることの多い植物素材の生活の道具たち。エコロジカルな実用品、日用品としてたくさん、たくさん、復活してほしいと思います。

もうひとつ、注目だったのは鳥浜貝塚の代名詞的な出土品であるところの、
漆でした。

vol..36でも紹介したとおり、世界最古の漆は日本で、ここ福井県の鳥浜貝塚で発見されています。

1万2千年前のウルシ木片 世界最古、福井で出土(日経新聞)

12月1日現在、まだ読めます。有料記事なのでさわりだけ。

以前は中国から持ち込まれていたと考えられていました。
なんでも大陸から持ち込まれたということになっているものが多い中、漆は日本に自生していたのではないかということがわかってきたのは嬉しいです。
つまり、「すでにあるものを、豊かに活かす」ことに長けていた人たちです。世界の先住民族に共通してますね。世界史を見ると、人のものが欲しくて殺して奪ってきた人たちもいましたよね。。。。


ここで、割り込みになりますが、一口に縄文時代と言ってもおよそ1万年近い間を指しますよね。最初と最後では生活様式は全く違うというほどに変化しているのです。草創期には、直前の旧石器時代の暮らしの名残りが感じられますし、晩期には近づいてくる弥生の予感がしてきます。ひとくくりにはできませんよね。
ですので、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期というふうに、区分されています。考古学ファンの方にとっては常識かもしれませんが、わたしなどは、特集を組むために調べてみて認識したことでしたので、気にしていない人もたくさんおられるかと思います。
気にしなくてもいいのですが、おすすめとしては、草創期と早期だけで前半分を占めるくらい長くて、あとになるほど期間が短いというのは覚えておくといいのではと思います。「前期」と言ったところで6000年前ですよ(「前」じゃなくて、「まんなか」だった)。
一般に縄文時代の土器として有名な、あのアーティスティックな火炎型土器は、中期の文化ですので縄文時代全体からすると後半です。
同じく有名な、宇宙服を着たような土偶、青森県亀ヶ岡の遮光式土偶は晩期。縄文時代の終わり頃です。
遮光器土偶
若狭三方縄文博物館で買い求めた遮光式土偶のレプリカ

時代区分によってどんなふうに違うのかなあ?と思って展示を見てみるのも、面白いですよ。わたしは、「これを現代に活かすとしたら…」という観点で見るのが好きです。
割り込みはここまで。
 

 鳥浜貝塚というのは、草創期から前期に形成されたもので、日本人の暮らしのルーツが眠っていた場所といえそうです。縄文遺跡といえば圧倒的に東日本が有名ですが、鳥浜貝塚が見つかった小浜市は福井県でも南にあり、奈良から日帰りでもいけなくもない距離ですので(ちょっとしんどいか)、興味がある人は、若狭三方縄文博物館のほうへぜひ行ってみましょう。

 そして一方で、vol.36を片手に奈良にある縄文コンテンツを見てみてください。さらに面白く感じられますよー。
vol.36表紙
 


土器や糞石に残る脂質からわかる縄文人の食べもの。

昨今は、遺伝子解析の技術が進んでいますよね。その成果?なのか、GMO食品などができちゃったり。その反面考古学では、昔はわからなかったことがわかるようになってきています。そんな展示もありました。
土器や糞石のかけらを粉にして機械にかけ、動植物のDNAを調べるのです(大雑把な言い方ですみません)。すると、日本では初期の頃には土器で魚介類を煮炊きするほうが多かったんですって。
森の民である前に、海の民であったのですね。木船であっちこっち、動きまくっておられたようです。

 縄文人の主食は堅果類!と思っていましたが、草創期の寒冷な時代には針葉樹が多かったはずなので堅果類よりも魚介類を主に食べたのかなあ。。その後今の日本の植生(落葉広葉樹・照葉樹)に近づくにつれて、小動物や森の恵みを食べるようになったのかなあ。海の民だったからこそ、海苔も消化できちゃうんですよね、きっと。
 

長々と書きましたが、そろそろこのへんで報告を終わります。あなんセイコ、縄文好きやねんなあ、というお話ではございますが、自然と共生するにはこの時代がまずもってお手本と考えておりますので、やはり縄文の奈良2をやらないとなあ…と、思います(勉強が足りんけど)。



次回は、前回福井県を訪ねたきっかけになった人と町に再会するため、池田町に行ったことを書きます。
前回…というのが、こちらです。
 

2度目にして、やっと少しずつ、訪問した場所の位置関係がわかりかけてきました(笑)


 
 



 






 
このエントリーをはてなブックマークに追加

とうとう11月も今日で終わりです。
昨日まで、福井県に行っていました。
その直前、天川村でキハダの森づくりに関するイベントがあり、さとびで取り上げたテーマでもありますので、行ってきました。

FBページでもご報告しましたが、こちらでも書いておきますね。





さとびvol.37と38にわたってご紹介した企画記事
読者のみなさま、覚えてくださっていますか。
その3年間の事業が来月12月をもって一区切りするとのことで、植樹イベントが行われました。
編集部もかけつけ、キハダの苗木を植えさせてもらいました。



筆者の杉本さんは、奈良県森林総合監理士会の代表でもあり、天川村の地域林政アドバーザーとして、村の森づくりに深く関わっていらっしゃいます。就任当初の大きなプロジェクトがこの記事の案件です。

みなさんは、山がごっそり皆伐されている姿を見ると、なんだか心配になったりしませんか。
わたしはそうでした。急に樹木がなくなると、土が流れやすくなるのではないか、直射日光にさらされて風化するのではないか、この場所はこれからどうなるのだろうか。などなど、素人なりに気になるわけです。

そんなとき、「分収林」というものがあることを知りました。天川村洞川にあるこの場所も、それです。

土地所有者は洞川財産区。立木を育てる造林者とは別。契約した年数が過ぎると立木を(切って)販売して、収益を分配するという契約に基づいた森林です。ここでは平成29年に満期を迎えました。けれども、契約されたのは60年以上も昔の話。この間に時代がまったく変わってしまい、林業は伐採搬出経費すら捻出できない状況に。再び、従来のような杉、ヒノキを植林したとしても、100年度にその需要はどうなっているのだろうか。それまでの間、育林する担い手はいるのだろうか。皆伐した後、この森はどうなっていけばいいのだろうか。
そこで、視点を変え、広葉樹を育てて持続可能な森づくりをすることになりました。

ここは陀羅尼助の里、洞川。その原料であるキハダは、和漢胃腸薬『陀羅尼助』の植物原料で、ミカン科落葉広葉樹です。そのキハダを育てようというアイデアが生まれました。
そんなとき、杉本さんは農業法人ポニーの里ファームさんと出会い、キハダの重要性や可能性に確信を得て村に働きかけ、村もその一員である一般社団法人フォレストパワー協議会の事業として「農林水産みらい基金」のコンペに応募したのです。

satobi37-12-13jpg



締め切りギリギリの滑り込み応募でした。その結果、見事に採択。杉本さんのファインプレーなのですけど、そこまで知る人は関係者のみですので、さとびとしてはここで声をあげておこうと思います。


2018年に農林水産業みらい基金の助成を受けスタートした事業の内容


皆伐跡地には、獣害防除の柵が作られ、さとびでも登場していただいている岡橋清隆(参照vol.42「美しい森」でロングインタビュー)さんの指導のもと、作業道が張り巡らされていきました。スノーパーク洞川、いわゆる洞川スキー場に隣接している10ヘクタールという広大な面積です。


道づくりと並行して、苗づくりも始まりました。キハダの苗づくりは、天川村やポニーの里ファーム等で行われました。杉本さんも村内で苗づくりをされていました。うまく育たず苦労されたり、葉っぱが出揃うと喜んだり。編集部も時々天川村へ出かけて杉本さんを訪ねたものでした。

 
satobi38-18



ひさしぶりに訪ねたキハダの森。地元の方や協力隊の方たちのおかげで、すでに約2万本の苗木が植えられていました。
わたしたちは、イベントとして、ほんの少し植樹させていただいたというわけです。
植樹

皆伐直後から折にふれてはここを訪ね、気にかけてきたので、いよいよ森へと育ち始める時を迎えて感動です。

 

現地では、記事を執筆くださった杉本さんや、
杉本さん
事業主体者である一般社団法人天川村フォレストパワー協議会の亥瀬さん、
いのせさん
苗木育成でプロジェクトに関わられたポニーの里ファーム保科さんにも会えました(黄色いアウターを着ている人!)。
モアツリー

また、大和高田市にある大峰堂薬品工業株式会社の研究開発部・安原菜々子さん、生産調達室・北林誠章さんも参加されていました。(キハダの出先になるといいですね)

保科さんによると、
「みなさんが植えてくださったキハダは、20年後に天川村の陀羅尼助丸として利用され、誰かのお腹を守る役割を担います」とのこと。
20年後、わたしの足腰はどうなっているでしょうか。せめて15年後の姿までは見に来たいと思います。 
 

場所はスノーパーク洞川の隣接地。今は、切り株と道の他には、びっくりするほど何もないように見えますが、2万本の広葉樹の苗木が待機中なのです。

作業道景色2

作業道景色



 
この景色が見える場所まで歩いて登ってみました。わたしは、岡橋さんの作られる作業道がスニーカーのままでも息切れすることもなくどこまでも上に向かって歩けることを知っています。
作業道2

作業道1


道は山の斜面を削りながら作り進められます。削り過ぎず、山を守りながら作られるのが岡橋さんのやり方です。できたてのときだけ見える土の断面。
キハダの森-土2
腐葉土になっている部分がどのあたりまでか、見えますね。

キハダの森-土
植物の根がここまで伸びています。根ではなくて、菌かもしれませんね。
樹木は、根や菌を通じてコミュニケーションしているそうです。
今はなんて語りあっているのでしょう。

「なんだか、人の手がはいちゃったなあ。新しい仲間が引っ越してくるらしいよ。まあ、俺たちもぼちぼち、もとの状態を目指して育っていこうか」

なんて?


ゆるやかな勾配のヘアピンカーブの道。いつかここに木陰ができる日を想像しました。
この道は、まだ発展途上なのです。ここに草木が育ち自然の力とともに、道が完成します。道作りと森づくりはリンクしています。岡橋さんの道づくりは、壊れない道とも呼ばれ、水の流れや植物の性質を考え、作業する人のことや、搬出にかかる経費のことも考えらているものです。

これからも、天川村に来ることがあったら、ここを訪ねて、苗木たちに会いたいと思います。わたしが植えた苗はちゃんと育ってくれるでしょうか。関わりができると、訪ねてくる楽しみも増えますね。

編集長


部員さんもご機嫌です。
部員さん


キハダの森は、散歩に、スポーツに、多くの活用が見込まれます。
杉本さんも、「たくさんの人にきて欲しい!」と望んでおられました。とはいえ、無断で侵入できる場所ではありません。今後のお知らせをチェックしましょう。編集部がキャッチした情報は、またこのブログでもお伝えいたします。

杉本さんには、来年春号で企画記事の締めくくりとなる執筆をお願いしています。ぜひ、読んでみてくださいね。 
  


また、この森のさらに隣に広がるゾーンはmore-treeさんと村が締結して、さらに森づくりが始まるようです。
https://www.more-trees.org/news/20210608/


天川の森の恵みをとどけるグッズはこちらからお求めになれます。
https://ozunu.stores.jp


福井県に行ったお話は、このあとの記事で書きますー。


 




このエントリーをはてなブックマークに追加

レタス
こんにちは。少し前、約1ヶ月間毎日ブログを更新するミッションをやってみて、ヒーヒー言っていましたあなんです。今日も雑談の時間がやってきました。おつきあいくださる方、ありがとうございます。
昔からブログを公開することにドギマギしてしまう傾向がありましたが、このごろ少し免疫力がついてきたようです。なんでも一度やってみると、多少なりともハードルは下がるものなのでしょうかしら。

読みたくない方は訪問されず、「読もうかな?」と思う方だけが訪問されるのがブログのいいところ。
このごろはネットでも、見たくないCMが無理やり割り込んできちゃうのが「………しいなあ」と感じる時代になりました。読みたいものを自分で選んで読むほうが楽しいですよね。

ご訪問くださり、ありがとうございます。編集部と少しでも親しくなっていただけたら嬉しいです。

今日は、人気サイト「北欧、暮らしの道具店」を運営されている会社の採用情報サイトのなかで、同社の価値観として表明されている「非競争志向」を紹介させてください。

company_photo




「非競争志向」でありたい。
⇒社内の仲間は刺激し合う部分はあっても「競争相手」ではない
⇒社外の他社は刺激をもらう事はあっても「競争相手」ではない
⇒奪い合うのではなく可能なら「協力」しあいたい。少なくとも「住み分けたい」。それは譲り合うという事ではなく、自分たちの根拠地は空白地帯を埋めるようにつくるという事。人はどんな僻地にだって豊かで幸せな社会をつくる事は出来る。
https://kurashicom.jp/338
非競争。共感します。

奪い合うのではなく可能なら「協力」しあいたい。少なくとも「住み分けたい」。 

人はどんな僻地にだって豊かで幸せな社会をつくる事は出来る。 

やはり、あれでしょうか、さとびも辺境のマガジンですので、そのせいでしょうか???

笑。



けれど、これは新くもあり、縄文的な志向でもあると思います。
先日の投稿にも通じるようなものを感じます。

 




人間は集団でしか生きられませんから、集まればリーダーシップは必要だと思います。けれど、そこから権力と支配が生まれ、自己顕示が生まれ、競争が生まれ、失う恐怖が生まれ、戦いが生まれてきたことを、そろそろ考えなおす時がきていると思うのです。心あるリーダーのもとに人が集まり、足るを知れば、わかちあえる。

奪われたと思うより、分け合ったと思ったほうが共存できそうです。
その上で、相手を侵食してまで(自然が相手であれば滅ぼしてまでは)介入しないことではないかと。



さとびは非競争志向でわが道を歩きながら、みなさんとゆるくつながりたいです。



 

  






このエントリーをはてなブックマークに追加


ベランダのビオラ
こんにちは。あなんの雑談におつきあいくださり、ありがとうございます。

今日は心に残るフレーズに出会いましたので
みなさまと分かち合いたいと思います。

わたしは、もともと空気を読めないタイプといいますか
クラスがどっと笑っていても「なんで?」とポカンとしているような子どもでしたので、
ちょっと人と考え方や感じ方が違うところがあるかもしれません。
「こういう時に、人はこういうふうに思うものだ」というルール?のようなものは
長い年月の間で学習してきたように思います。

今でも、人の立場にたって考えられているか、それは「嫌われたくない」などの類の気持ちからではなく、素直に相手への愛情や敬いから生まれてきた気持ちからなのかを自分に問います。
(人間力の成長は一生かかると思っていますので、日々の積み重ねです。まだまだです)



わかちあいたいフレーズの紹介をしますね。
元客室乗務員をされた経験をもとに、おもてなしの研修等をされている方の言葉。
(接客業をされている方の、プロフェッショナルでありつつ、人としての思いやりがにじむ行動は、本当にカッコいいですよね。接客業でなくてもすべて言えることですが)

おせっかいかも?と躊躇するときに。




「おせっかい」と取られるのではないかと躊躇して行動を起こさないよりも
…「思い切って」 「おせっかい」することをお勧めします。
なぜなら「もしかしたら」と相手を思い、想像力を働かせている時間は、
着実にあなたの「我」は薄れ、本来の自分自身と優しさに出会っているからです 

つまり、本来の自分自身とは「我」が薄れた状態なんだとおっしゃる。
ここで、わたしは「身の丈しごと」(本誌内のコラムにあるテーマ)のことなども思います。自分を100%生きるということは、そういうことかもしれない。さとびが考える「やさしさ」も、人間に本来そなわっているもののはず。それを発露することが、100年住み続けたい暮らしにつながります。



さらに。指導する活動の中で気づかれたこと。



いくら人前で美しい言葉づかいや洗練された所作、良い行いをしていたとしても、心の中が相手を見下す思いや、やってやった感でいっぱいだったらどうでしょう。その人の人間力は高まらず、相手や周囲を笑顔にし続けることはできないと思います。
陰の部分なんて見なくていい。わたし自身そういう認識だったのかもしれません。

優秀な人こそ、これに陥る場合があるのではないでしょうか。
あるいは、わたしたち編集部のように言葉や文章を日常的に扱う者は、言葉だけを美しく整形することも可能だったりします。

心の中は人には見えないけれど、リアルにお付き合いをしていると見えない部分が見えてくることがありせんか。
つまり自分の心も、人には伝わる。よくも、悪くも。

単純な話、(外側を演出より)内側からよくなることだけ考えていればいいのかな。
それが結果的に外側にも美しく現れる…というのがいいのかな。

わたしは、これから年を重ねれば重ねるほど、「セイコさんに会いたいなあ」と思ってもらえるような人になりたいのです。わたしにとってもそれが楽しく嬉しいことで、会いにきてくださった方もちょっぴり元気になって満足して帰っていかれる。そんな理想をイメージしながら、心を豊かにしていきたいなあといつも思います。まだまだですが。




今日のフレーズは、さとびのサポーターになってくださっているS社のS社長様から、毎月送っていただく小さな冊子に掲載されていたものです。いつも自分を振り返るためのひとときをいただいています。
ありがとうございます。











 
このエントリーをはてなブックマークに追加

豊住書店さんに行ってきました。


閉店されるとの驚きの知らせが飛び込んできたのは、47号をお届けしようと準備していた頃。

部員さんが若い頃から大好きだった書店。国土地理院の地図が我が家の本棚にずらりと並びました。
「豊住さんだったら置いてくれてはる」

奈良で暮らす人の多くは、この書店にその人ならではの思い出があったことでしょう。
それでも時代はアマゾンへと流れていきます。
店主さんも次の世界へ旅立っていかれました。

さとびごころのリスタートから間がない頃は、
以前からのお取引とは知っていても、おどおどしながらお届けしたものでした。




最後の精算は、vol.46とvol.47をまとめて。
ご連絡をいただいて、かけつけました。
vol.47は閉店までの短い間に、それでも1冊売れていました。

vol.46は完売していました。

(なんだかこれを書きながら涙ぐんでいるんですけど)
マイナーな雑誌でも、応援してくれました。
路面の見えやすいところに置いてくださるだけで、どんなに嬉しかったか。

「売れる雑誌をつくりなはれ」

今も噛み締めます。どんな企画をどう編集したらいいのか。
わたしは、「売れる」ことを考えるのは苦手だと決めてかかっているのではないか。
売れることをあまり大切にしてこなかったのではないか。
編集部が伝えたい気持ちからの発想に偏っているのではないか。
豊住さんの言葉を思い出すたび、考えさせられました。 

相変わらず、マイナーこのうえない雑誌ではありますが、この頃少し動くようになりました。
売れるということは、人に届いたということ。
売れるということは、求められたということ。
売れない本をひとりよがりで作るのではなく、読者さんに心から届けるつもりで作る。
これからも、編集部なりの努力を重ねていきます。

豊住書店さま、ありがとうございました。





 
このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ