さとびこ編集室日記|100年住みたいのは自然にも人にもやさしい地域

自然と人のつながりを地域に根ざして考える奈良発ローカルマガジン「さとびごころ」を編集する「さとびこ編集室」より、日々の活動のことやお知らせ、雑談を綴ります。 雑誌づくりを通して、自然にも人にもやさしいあり方をみなさんとともに考えます。

2021年02月

水田3

最近、雑談ばかりですみません。
雑談だったら書けるんですよ。

立派な文章は、さとびの執筆陣におまかせしております。
わたしは、雑談担当です(学識者ではございませず) 。
お気楽にお読みくだされば。。。 

今日はお米の話です。
日本人のお米の消費量が減っているという話をよく聞きますね。

過去50年で半減とのこと。たしかに、パンもパスタもラーメンも、みんな大好きで
お米だけを食べていた時代ではなくなっています。

我が家でもいろいろ食べます。けれど、「基本はお米」を大切にして、
意識してお米を食べたいなと思っています。

民族の文化と食べものはリンクしています。
日本人は海苔を食べますが、多くの外国では食べなかったとか。
(近年は SUSHIブームで人気だそうです) 
逆に言えば、日本食が消えたら日本人らしさも消えるんじゃないでしょうか。
稲作は弥生時代に日本にもたらされた、とかつて習いましたが
稲作そのものは縄文時代からありました。
ただ、水田ではなく、陸稲(焼畑)だったようです。
それも、いっきに水田化したのではなく、たしか中世くらいまでは
田んぼの中にまだらに水田と陸稲が混在している遺跡も見つかっています。
最古の稲作の証拠が、岡山県朝寝鼻貝塚で検出されたプラントオパール(約6000年前)です。
主食ではなかったかもしれませんが、縄文人もお米を食べていました。
それほど、お米と日本人のつながりは古いのです。 
(参考:「稲の日本史」佐藤洋一郎)
  

そんなお米の消費量が減る一方で、世界では「和食」が高く評価されています。
日本人が和食から離れて、欧米化した食生活ばかりになるのは、残念。
しかし、日本人って「何でも興味を持つ」ところも良いところだと思っていますので
食生活の多様化によって、お米以外の消費が増えるのも悪くはないのですが
お米から離れきってしまうのは、残念なのです。

ちなみに、同じように、日本語も大切にしたくて。
言葉の由来って、案外気にせずに暮らしていますが、特にやまとことばの意味や
ひらがなの意味を知っていくと、先人のものの考え方が詰まっていて
それが今もわたしたちを救ってくれているように思え、
どんなにカタカナが増えても、決して消えないようにしたいと思うのです。
それどころか、もうすこし勉強したほうがいい、日本人の自分でさえ。




みんながお米を食べると、田んぼが守られます。
田んぼというのは、水を貯める人口栽培装置で、食料生産という意味にとどまらず
災害の緩和や景観づくりや、生物多様性などのさまざまな恩恵を
もたらしてくれるものです。
それでいて、完全栄養食品を生んでくれるのですから、こんなにありがたいものはないなと。

災害の緩和のことは、本誌でも「田んぼダム」の記事の中で
農家のこせがれさんに語って頂いておりますので、ちょっとお読みくださいませ。

 
  

  
わたしの妄想としてましては、県民はまず県産のお米を食べるようにしたらどうかと思うのです。
食べることによって、環境が守られる。いい環境から食べ物が生まれる。
その恩恵を、そこに暮らす人が授かる。
よって、わたしもお米は知り合いの農家の方から直接購入しています。
だって、「日本人のコメの消費量が増えました!でも全部輸入品です!」
なんていう未来には、まったく魅力がないですもの。身土不二です。

 

こういうのも地域づくりなんじゃないかなーと。
こんなご縁を結べるのも、大都会ではなかなか無理ですよね。
地方の暮らしって、すばらしい。

 

そんなわけで、主食となるお米が生まれる田んぼについて、知ってるようで知らなかったような
ちょっと詳しいお話を、次号vol.45から連載していただくことにしました。

最近は、農的な体験を望む人が増えているようです。
田んぼが季節の移りかわりに伴って風景を変えていく意味を知るのも
心豊かにしてくれるのではと思います。

忙しい毎日であればこそ、ごはんと味噌汁。
一汁一菜のシンプルな食事でいい、体にもよくて、地域にもいい、
お米を食べる生活を楽しみたいと思います。 




   
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ここ最近、ぽかぽかしておりましてご機嫌です。
明日からまた寒くなるようですね。
それが最後の寒さになるといいなあ。

今日は、薬食同源でいきましょうというお話をさせてください。

医食同源という言葉はよく知られています。中国の古い言い伝えかと思いきや、
日本で作られた造語だそうです。 
もとになったのが、中国の薬食同源思想とのこと。



医食同源(いしょくどうげん)とは、日頃からバランスの取れた美味しい食事をとることで病気を予防し、治療しようとする考え方。
「医食同源」という言葉自体は中国の薬食同源思想から着想を得て、近年、日本で造語された。この言葉「医食同源」は発想の元になった中国へ逆輸入されている。
初出は1972年、NHKの料理番組『きょうの料理』の特集「40歳からの食事」において、臨床医・新居裕久が発表したもの(NHK「きょうの料理」同年9月号)。(wiki)

身の回りの、特に気をつけずに食べるものには
まあ例外なく食品添加物が入っていますし、野菜ですら
どんな農薬や化学肥料が使われているのが知るすべもなく、
1日でどれだけの化学物質を複合的に体に入れているものか
想像もつかないくらいです。
白米はだめ、砂糖はだめ、いろいろと、ダメだしされる食べ物もあります。
逆にミネラルをとろう、なんとか酸をとろう、というサプリメントの広告もあります。

ひとつひとつを細かく考えると
調べてばかりになってしまいそう。
だったら…、できるだけ本来に近いものを食べることが、
結局は安くて健康でいられるのではないでしょうか。
しかしですよ、実際、本物は価格が高いことが多く
毎日毎日全アイテムをそれにこだわるとするならば、「お金!お金!」になってしまいますね。

 

ですから、今特に病気もなく、普通に暮らせているのであれば
まずはそのことに「感謝!ラッキー!」と念じまして、
神経質になりすぎずに、普通に食べるとします。 
そのうえで、できる範囲で本物を部分的にでも取り入れませんか。
醤油、塩、味噌、お茶などの基礎的なものあたりからどうでしょうか。
特に、塩がおすすめです。減塩すべきは、いわゆる「NaCL」(普通の食塩・精製されています)でありまして、本来の塩は元気のもと!ミネラルを含む自然塩は不足しています。
ということは、本物の梅干しなんて、最高ですね。
それを「薬」だと思えば、なんて安いことでしょう。

高血圧の薬、糖尿病の薬、一度病気になってしまうと
一生にわたって薬代がかかります。それに払うよりも、
「おいしい、うれしい」食べものに一生使うほうがいいですよね。 



また、コロナを契機に暮らしを手作りすることに人気が高まってきていますので
味噌や野菜など、自分で作れるものは作るのもいいですね。
自分で食べるために、危ないものを入れる人はいませんから。

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体は、本来は健康になるほうに働くようにできているわけですよね。
人間だけでなく、全ての生きものは、生きようとしています。春になると、ベランダの植物も新しい芽を出してきます。
その方向性にそって、自分で自分を応援するのです。
「本物」は、生命力を持っていますので、「自分の体」に必要な成分を含んでいるはずです。
まるっと、そこを信頼して食べる。
生命力を阻害する要素のない本物を食べる。


ここまで加工食品や添加物が増えていなれば
単純にただ「食べること=健康づくり」になっていたはずなのですが…。
現代社会はすでに、こうなってしまいました。
いたしたかござません。これも、日本人が選んできた道。
ですけど、選んだものは変えることもできます。
少なくとも、自分のことは自分で変えることができます。

 

病院で処方される薬は症状を止めるためのもの。
その薬と同様にたちまちに「効く」わけではありませんが、薬事法を気にせず自分の自然治癒力を高めてくれる本物の食べ物を、日常的に食べる。何であれ、お気に入りのアイテムを本物にチェンジする。可能な限り、無理なく、アイテムを増やしていく。




なんだか、とてもいいことが待っていそうな気がします。
「病は気から」と言いますが、「健康も気から」だと思うんですよ。
「こんないいものを食べられて幸せだ。おいしい。嬉しい。感謝」 と、本気で思って食べるだけでも浄化効果があるそうです。これが一番の基本かもしれませんね。そして薬食同源感覚で、日々の食べ物のなかに「薬」を増やしていく。

だんだん、医者いらずに近づくと思いませんか?

さとびでも、暮らしの中の薬草について
取り上げてみたいと構想中です。 
 

  

  

  
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昨日は、奈良市内で行われた講座(京終さろん)で
本誌でも過去度々お世話になった、奈良民俗文化研究所・鹿谷勲先生の 
「民俗からみた建築文化」を聞いてきました。

鹿谷さん(と呼ばせていただいてます)は奈良県の文化財保存職員として、県内の民俗文化財の調査研究、審議に関わってこられ、
奈良県立民俗博物館にも在籍され(さとびとのご縁はこの頃から)
退職後に研究所を立ち上げ、新聞等へのコラムの寄稿や、研究会の自主開催、講演活動などをされており、奈良の民俗文化に大変詳しい方です。 

わたくしあなんは、実は過去に地域雑誌「あかい奈良」に関わっていた頃
鹿谷さんのコーナーの担当をしていたことがあります。
当時のわたしは子育て真っ最中で 、奈良のこともまだまだ知らないことばかりで、専門家の鹿谷さんが締め切りを守ってくれないことにヒヤヒヤしていたものです(笑)。 

取材中の鹿谷さんにご一緒したことがあります。奈良市内の古民家の土壁の中に、古い布が使われているのを見つけたとき、物静かな鹿谷さんから熱い空気がたちのぼるのを感じて
本当に民俗文化財に情熱のある方なんだなあと思いました。

古いものが物語る何かを尊重することは、これからの文化を考えるために
必要なはず、、、民俗文化の詳細な内容についてはすぐについていけなくても、
そういうところでわたしは共感していました。

さて、今回の講座では、まず民俗文化財とは何かというお話から始まりました。

定義によるとこうなります。(太字はわたし)



●衣食住、生業、信仰、年中行事に関する風俗習慣、民俗芸能、民俗技術およびこれらに用いられる衣服、器具、家屋、その他の物件で我が国民の生活の推移の理解のために欠くことのできないもの
(文化財保護法第2条第1第4号)
 
●文化的景観「地域における人々の生活または生業及び当該地域の風土により形成された景観地で我が国民の生活または生業の理解のために欠くことのできないもの
(文化財保護法第2条第1第4号)


推移や形成には「時間の流れ」が必要ですので、新しい物件は含まれないということになるのでしょう。
文化財をなぜ認定するとかというと、保存のためだそうです。そのままでは維持費がかかり失われていくかもしれないものを公金で支援するために。文化財として適切かどうかは審議されて決められます。これによって、誰かが恣意的に保存する、解体するということから守られるそうです。


紹介された物件の中で、わたし的にもっとも印象的だったのは、日本の民俗学者・柳田國男の生家。驚くほど狭く(4畳半ふたつと、3畳ひとつ、あとは台所など)、そこに6人で暮らしていました。あまり知られていない柳田國男のおいたち。長男が結婚すると家族内での揉め事が続き、「小さい家は、家庭がうまくいかない」と幼い柳田國男は悟ったとか。先に家を出て医者となった長男のいる東京に12歳で転居、才能を開花させていきます。

「子どもでありながら、そんな意識で家を見ていたのはさすがですね」と鹿谷さん。


その他、カラブロ(奈良市)、傘堂(葛城市)、骨堂(奈良市)、連歌堂(宇陀市)などが紹介されていました。

文化財というのは、国が認めたから格が上だ、認定されていないから格が下だというふうに考えるものではないとおっしゃるところ、また、富裕な人や権力ある人が残した立派な物件だけでなく、とかく「価値がない」と壊されてしまう庶民の物件こそ非常に大切ではないかとのご意見に、大変共感しました。

壊されていくのは仕方がないとしても、せめて写真や図面でもいいから残されてほしいものです。家族の方たちが思い出にと、残してくださるだけでも、意味があるかもしれません。
研究材料としてだけでなく、これからのあり方を探るうえで、自然資源に依存した庶民の暮らしはどうだったのか、お金をかけるだけでない生活の形があったのではないか、ということを考えるときの学びになったり、また、昔の人の暮らしは今の視点から見ると「大変」に見えることが多いものですが、そうした手間暇のかかった生活を、なんだか愛おしく感じられたりするものではないかと思います。
これは、さとびごころの編集テーマにもつながります。

久しぶりにまた、奈良県立民俗博物館へ出かけてみたくなっています。

京終さろんについては、こちら をご参照ください。



 
  

  

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ぽかぽかした天気が続いたと思ったら
ここ数日は冷蔵庫の中にいるような寒さです。

もうすぐ、春らんまん。あと少し。

先日、縄文特集の話をしましたので少し続きをします。
興味のある方はおつきあいくだされば。。。


縄文時代は、いつどのように始まったのかという素朴なことを考えますと
日本列島の誕生と関係があるようですね。 
この点が死角になって、理解がぼんやりしていたことに気づきました。

歴史の時間に、「旧石器時代、新石器時代、縄文時代」のような
ことを習いましたけれど、そのときの地形や気候の変化がどうだったのかついては
あまり記憶にないと思いませんか?
(勉強熱心でなかったことがバレてますね)

日本列島は、もともと、「大陸の一部」だったのです。
びっくり。

次号で地質のことを特集しますけれども、執筆をお願いする人たちにとっては
1+1=2 くらい当たり前のことなのでしょうけれど
普段の生活でそんなことは考えていませんものね。

2万年前までは氷河期。このとき、列島はまだ大陸とつながっていました。
だから日本でもナウマンゾウが見つかったりしているのは、
陸続きだったからこそ。その獲物を追いかけて人間もやってきたはず。
大阪平野でも、闊歩していたそうです(『奈良県の縄文遺跡』)
  
巨大な獲物を石槍等で捕って食べる、、、なんとすごいことを。
食べるとは、生きるとは、過酷であったと思わざるを得ません。
当時は火山活動がさかんだったと言われています。
九州の旧石器人は火山噴火で死滅したとか。。
それでも、温泉の出る場所は、どんなに魅力的だったことでしょう。
ボイル料理ができるじゃないですか。
(ちなみに湯の峰温泉で作る温泉卵は我が家で人気。脱線しました)

ナウマンゾウの像。
野尻湖パーキングエリアナウマンゾウ
お借りしましたhttps://www.honda.co.jp/dog/highway/jyoshinetsu/kurohimenojiriko/down/

2万年前の地図

わかりやすいのでお借りしましたhttps://www.kiifudoki.wakayama-c.ed.jp/tenji/zyosetuten-kyuusekki.htm


時の流れとはすごいもので、縄文時代が始まる頃には温暖化したそうです。
大型獣は絶滅。日本列島は大陸から切り離されました。
さあ、どうするか。

このとき、海水が陸地まで入り込んできます。
内海だった日本海に対馬海流が流れ込んできます。
南には黒潮が流れてきます。 

これによって、暖かくなった日本列島の森に変化が起こり始めました。
それまで全国的に針葉樹に覆われていたものが、、、
西日本は照葉樹林帯、東日本は広葉樹林帯、北海道や高い山には針葉樹林。。。
これが今もある日本の森の姿。そこにいる獲物がイノシシや、シカをはじめ
タヌキ、ノウサギなどの中小のすばしっこい動物なのです。
これを弓矢で狩猟しました。 


ですから、博物館などで縄文時代の石器を見ますと
指先くらいの小さな三角形の石鏃(せきぞく・石を原料にしたやじり)が並んでいます。
さとびごころvol.36掲載の、山添村歴史民俗資料館でも、このように。
(身近な資料館・博物館で見てみてください) 
山添村民俗資料館石器
それまで(旧石器時代)は、石槍がメイン。
縄文時代になったら、弓矢がメイン。



以降縄文時代の人々は、弓矢の改良や縄猟などの狩猟方法に一層磨きをかけることになった。 (『奈良県の縄文遺跡』の中から「コラム2  動物相の変容と狩猟具」)


縄文時代の前に日本列島の地形や気候の変化あり。では、その前はどうなっていたのか。いや、もともとはどうなのか?そして、奈良県は今、その歴史とどうつながっているのか?

と、興味が広がりまして、次号vol.45では「地球の歴史と奈良の地質」という特集を計画しております。これはちょっと、好みが分かれるテーマであろうとは予想しておりますが、今の生活を送るのに一見必要なさそうな話題のようでも、風土と人のつながりについて思いをめぐらせる機会になると思いますので、お読みいただけたら幸いです。執筆をお願いしている二人も、今はりきって取り組んでくださっています。
 

 今回も、『奈良県の縄文遺跡』「コラム2  動物相の変容と狩猟具」を読みながら、自分にわかる範囲の雑談をまじえてお届けしました。
次の縄文雑談では、漆の話(上記の本では「コラム3」)をしてみたいと思います。
縄文話の好きな人がおられましたら、ご連絡ください。お茶しましょう! 
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当オフィスがさとびごころの発行元になることが決まったころ(楽屋裏では2017年に内定してました)
リスタートしたら是非ともやってみたい!と決めていたのが縄文です。

vol.36で実現しました。

 

このとき、お世話になった松田真一先生の著書が『奈良県の縄文遺跡』 (青垣出版発行 2017年)。

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タイトルのとおり、奈良の縄文遺跡が87箇所も紹介されています。
これをバイブルとして、「縄文の奈良2」 をやってみたくてしょうがいないんです。
先日は建国記念日がありまして、ひとつの国として世界一長く続いていることに
喜びと誇りを感じていましたが、神武東遷どころではない昔から
この奈良でも自然と調和しながら人々が暮らしていたことを思うと胸がときめきます。

この本の面白いところは随所に挿入された13のコラムです。
特別な専門知識がなくても、十分わかるように書いてあり、
奈良だけでなく、先生の研究による全国の事例をひもときながら
縄文文化への理解の助けとなる
楽しいコラムになっています。

その中から、「コラム12 動物の中のイヌ」をご紹介したいと思います。

奈良では 特集でもご紹介した橿原遺跡(橿原陸上競技場のあたりです)から
イヌの出土があります。奈良県では少ないそうですが、
全国には人との関係を知る手がかりとなる出土例があります。

イノシシやシカの出土では、「食べた」「骨などを活用した」ことがわかりますが
イヌの場合は「埋葬」されているのがほとんどなのですね。
(日本でも一部ではイヌを食べていたそうですが、、、ドッキリ)
全身の骨が、きちんと折りたたまれて埋葬されており、解体した(食べた)跡ではないそうです。

それも、成人男性との結びつきが強い。
狩猟犬だったようですね。



ちょっと横道にそれますが、
縄文時代の前はというと、マンモスなどの大型獣を追いかけて
人々は列島にやってきたと言われています。
その後の気候変化で、マンモスなどは絶滅し、
かわりにすばしっこい中小動物が獲物になりました。
特にシカとイノシシ。(今も同じでしょう??)
日本中に森が繁るのも、この頃です。
これにともなって狩猟の仕方も変わり、 弓矢が導入されます。
石鏃という、三角形の小型の石器がたくさん出土し始めます。
「おれ、狩猟してくるわ」と、弓を持ってイヌを連れて
森の中へ出かけていったんでしょうか?縄文人も。 

イヌは、ただの道具として見られていたのではなく、
愛情を持って共に暮らしたと思われるのは、
骨折したところが治癒した骨を持つイヌが見つかっているから。
怪我をして狩猟犬としてはお役御免になった後も飼われていたということ。
珍しい例としては、埋葬された男性がイヌを抱いた状態だったそうですよ。
(名古屋市 大曲輪(おおぐるわ)貝塚) 

今回は、編集部員に無類の犬好き(成人男性)がいるため、
この話を取り上げてみました。

これからときどき、この本のコラムの中から話題を取り上げて
ご紹介していこうかな。
いつか、「縄文の奈良2」ができる日を夢見て!

よろしければ『奈良県の縄文遺跡』、お買い求めになってみてください。






  
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