さとびこ編集室日記|100年住みたいのは自然にも人にもやさしい地域

自然と人のつながりを地域に根ざして考える奈良発ローカルマガジン「さとびごころ」を編集する「さとびこ編集室」より、日々の活動のことやお知らせ、雑談を綴ります。 雑誌づくりを通して、自然にも人にもやさしいあり方をみなさんとともに考えます。

2020年05月

5月25日、全国的に緊急事態宣言の解除となりました。
これからも、引き続き気をつけ、気を配る必要がありますが、
ひとまず日常を取り戻す目処がつきました。

ステイホーム期間は、奈良新聞の全面広告に癒されていました(^^)。

同じことならいい方向でステイホームしようとする人たちからの
便りを見聞していますと、この機会に家の中をメンテナンスする人や
家族揃っての食事の大切さを感じる人、庭に出て野菜を育てる人、
読書に浸る人など、それぞれの工夫が感じられました。

また、編集部が日頃仲良くさせていただいている農家の皆さんは
田んぼの準備や野菜の苗の定植などで忙しそうでした。
山村では、外部からの感染予防だけは心配されましたが
ほぼ、いつもと変わらないという声が聞かれました。
 

わたくしは、緑を眺めて過ごすことがいつも以上に増えました。

初夏は緑が輝く季節です。

コロナがあっても、なくても、植物はどんどん伸びていきます。
小さな芽や葉っぱが、数日のうちに成長していく姿を見ていると
植物はマイペースであって、人間を励まそうとはしていないかもしれませんが
見ているこちらは元気をもらいます。


生きてるんだなあ。
命が動いているんだなあ。 
 

人を元気づけるということは、自分らしく生き生きとすることなのだと
植物たちから教えられます。
自分を生きるということは貢献性がある。 
愚痴を言い合うことや、いかにあるべきかを語ることをしなくても、
ただ自分を生きるだけでも価値があるのだと。

日常の生活が戻りつつあります。
少し停滞していたことも、ピッチをあげて取り組む時がきました。
あとしばらくすると梅雨ですね。
この爽やかな季節のうちに、やっておきたいことを済ませましょう。

編集部も、夏号の準備、頑張ります。

 






 
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わたくし(あなん)が、よく言う言葉です。
生きることは、酸素を吸って、水分をとって、食べ物を食べるということ。
酸素を吸って呼吸しています。
水だけでも、しばらく生きられます。人間の体の70%は水分。生命の始まりは水。
酸素と水があっても、食べ物がなければ、生きられない。

逆に、これらがある限り、生きていくことは可能です。
その証拠に縄文人たちは、自然に依存して暮らしていました。
原理原則としては、可能なのです。

文明が発達して、原理原則をあまり気にしなくても暮らせるようになりました。
けれど、この原理原則は今も生きています。
水道水に毒が混じるだけで、恐ろしいことが起こります。

酸素はどこから?緑から。地上の植物だけでなく、光合成をするものなら海からも生まれます。
水はどこから?日本の場合国土の67%が森なので、雨が森に落ち、川となり、現代であれば上水場を経て蛇口へ。森や土が水を浄化しています。海、空気、森、川、大地、このプロセスの途中に汚染があれば、それだけ健康に悪影響があるということになります。このプロセスを人工的に賄うのは、非現実的なコストがかかるはずです。
土はどこから? もともとは、地殻変動や火山活動で生まれた大地のうえに、森の植物や動物を微生物たちが分解し栄養分の豊かな表土を作っています。これが川によって運ばれ、川下に肥沃なゾーンが生まれ、古来農産物が豊かに実る土地ができています。日本の土地はもともと、恵まれています。

自然そのまま、野生そのままでは、生きることは大変過酷なものになりますが、
文明によって、便利に生きることが可能になりました。
けれど、文明は貧富の差や支配構造や争いも産みましたし、特に現代では、科学技術の発達によって人類史を変えるかもしれないほどのものになっています。 今地球上にある核が爆発するだけで、地球は終わりですし、遺伝子操作やAIの進化の先を、一般庶民はまだ見極めることができていません。

現代は、「ただちに命に差し障りのない範囲」で、じわじわと
原理原則から離れているのではないでしょうか。

このとき大切なのは、人が本来もっているやさしさではないかと思います。
文明が進化する根底に、自然へのリスペクトや心のやさしさがあれば、進化が害になることなく、調和の方向へ向かうことができるはずです。

新鮮でおいしい空気を胸いっぱいに吸えること。
消毒しなくても大丈夫なほどに綺麗な水が飲めること。
化学肥料を投入しなくても、栄養たっぷりの作物が収穫できること。
自然から資源をもらうときに、すべての生き物や、ひいては人間自身にとっても、滅亡しない方法を選ぶこと。

そんな原理原則を尊重して、生きていくことはできないものでしょうか。
わたしは、それを「自然にも人にもやさしいあり方」と呼んでいます。 

この世界は1%の人が富を握っている、なんて聞いたことはありませんか。
たしかに、もう一人一人の手にはおえないほどに、大きなしくみと力によって社会が回っているのかもしれません。でも、人数が多いのは99%なのです。
わたしたち99%が、何に価値を認め、何を大切にし、どんな行動(暮らしかた)を喜ぶのか、
誰にもコントロールすることは、本当はできないはず。(マスコミだけを信じていたら別ですが)

大きなしくみの前に、今ここで暮らしている地域がある。
愛する家族や友人たちがいる。ふるさとがある。
自分から、家族から、地域から考えていくことができます。
変えたかったら、変えることもできるでしょう。どちらへ向かいますか。

自然の豊かさとやさしさは、相乗するものではないかと思います。
自然が豊かであれば、食べ物や飲み水への心配がなく、お金以前に自然に生かされているという
根源的な安心感がもたらされます。生計が成り立つだけのお金があれば、かりかりすることもありません。そんなとき、やっと人は心の余裕をもち、やさしさを提供できることでしょう。追い詰められ、苦しんでいるとき、やさしさを犠牲にすることになりかねません。
また、誰からも頼まれなくても芽を出す植物を見てもわかるように、自然の営みの尊さ、ありがたさを感じるなら、そのおおいなるしくみを破壊することへの畏れと次世代へのおもいやり(やさしさ)によって、永続する自然の豊かさが守られるでしょう。
 
自然にも人にもやさしい方向へ。あなたとご一緒できたら幸せです。



  

 
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日本語というのは、世界的にみてもユニークな言語だといいますよね。

わたしたち日本人は、いつから文字や言葉を使いこなすようになったのでしょう。
漢字が伝わる以前にも、神代文字などが伝えられているところを見ると、きっと文字はあったのではないかと思いますよね。なぜか、、、、「と言われている」とか、「偽りとされる」とされがちですが、漢字以前に文字があると、いけないのでしょうか(^^:)

そこに漢字が入ってきて、それまでの言葉に音としての漢字をあてたり、
漢字に意味をもたせたり(訓読み)、漢字をひらがなにくずしたり、
だんだんと、「漢字仮名交じり」になってきて。
今ではここに、英語をカタカナで表記したりアルファベットが混じり込み、
それはそれは豊かな状態に。

ここは日本でしょ?とつっこみたくなるほどに、アルファベットで表現するのも、どうかと思うこともありますけども。。。英語の大文字をとって短縮していただいても意味がわからず、全部書いてみたほうが想像がつく、ということもありますよ。

例 IPCC(わかります?)
  Intergovernmental Panel on Climate Change  国連気候変動に関する政府間パネル

英語も多少は意味を確認しておかないと、不思議な短縮大文字が増えていきます。
特にITの分野では、カタカナだらけですね。
ですけど、日本人て、古代からずっと、外からやってきた人や文化を受け入れて、いつのまにかオリジナルなものに進化させてきたので、現代になって英語(ことば)やアルファベット(文字)が流入してきているとしても、これもきっといつのまにか日本語のなかに溶け込んでゆくのではないかと思ったりします。事実、アルファベットも形として美しいと感じる自分がいます。日本語とまぜながら、どうしても使いたくなる文字です。 

ステイホーム。というカタカナ言葉が流行しましたが、完結で言いやすく、意味が記号化され、
漢字よりも軽快です。これはこれで、カタカナ言葉にもメリットがありますよね。


漢字は深い。強い。一般的に、漢字中心の文章のほうが知的で権威があるように扱われることが多いと思います。漢字が読めることが一部の身分の人に限られた歴史のなごりなのでしょうか?



しかし。


長い歴史のなかで生き残ってきた「やまとことば」には、独特の情緒が感じられます。
たとえば、「ものすごく」と言ってしまいたいときに、「このうえなく」と言ってみると
なんだか自分の心が和らぐような。。。
ここに宿る感性を、もっともっと大切にしたいなあと思うのです。 なぜなら、
わたし自身、かなり遠ざかっているように思います。
「これって、やまとことばでは どう言うのかしら」というふうにピンとこないことがあり、すでに漢字的な表現のほうが身にしみているという自覚がありますし)
 
こころにしっくりきて、やさしく、やわらかい やまとことば。
漢字の波、外来語の波をうけながら、消えないやまとことば。
少し意識してみたいものです。




そういえば、ひらがなの一つ一つにも意味があるそうですね。

あ=すべての始まりを表す
さ=さわやかさを表す

などなど、全部調べてみるのも面白そうです。時空を超えた心の旅ができそうではありません?










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今日は、最近見つけて、とてもいいと思ったサイトをご紹介します。
食とアニミズム

「食とアニミズム」https://food-animism.com

タイトルだけでも、惹かれました。そうそう、そういうことです、と。

001から始まって、ただいま004。北前船がテーマです。

サイトの中から言葉をいくつか。。。

現在の食をとりまく環境は、物質的には豊かかもしれないけれど、精神的にはけして豊かとは言えない。

屋台は火事の多かった江戸の町の非常外食システムとして中世から長らく存在してきた。
会社が得るのお父さんたちは、そこでただの食べ物ではなく、パッションを交換していた。

…あのような造形をした八百万の神々(コウジカビ)がそこらじゅうにいて
それらが発酵した食べ物として変容したものを体に取り込んだ瞬間、
切り離された身体と精神(魂)が接続されるのである。


歴史や風土が食べ物とからんでいることや、おいしい食とは、魂を接続させるものだということなど、共感できることが解像度の高い言葉と美しいデザインで発信されています。これは、筆者の方の一人語りのウェブマガジン(と、呼んでいいのかしら)。それだけに、軸がしっかりしていて、読み応えがあります。

奈良の食にも歴史や風土が関わっているのですが、どこでも同じような表現でさらりと語られることが多いように感じています。たまには、知的に探検してみたいなあと思いました。これからは、農に関わる記事にも増やしていきたいと考えているところですので、力をいただきました。




さとびは、ウェブのほうはあまり良くできていないと自覚しておりまして、せっかくご訪問いただいた方にも十分楽しんでいただけていないかもしれません。すみません。今のところ力不足ですが、いつか、ウェブも改善したいと思います。
それと同時に、やはり雑誌という(今や伝統的な?)メディアのかたちを大切に考えています。充電不要で、手軽で、目にやさしく(人々の目はRGB光線に日々さらされていますので)、万一捨てるときもリサイクル可能、タイムラインの彼方に流れていかず、いつもそばに置いておける、雑誌というメディアの良さを生かせる編集を目指して、前進しますね。ウェブと雑誌、お互いの長所、短所を補完できたら。。。

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41号の特集でお世話になった伊藤立平さんが、さとびごころを紹介してくださいました。
発行の意図を理解していただき、とても楽しいページづくりができました。 ありがとうございます。
41号ができましたの投稿はこちら


コロナによる自粛も、少しずつ解除される兆しが見え始めました。
引き続き適切に警戒しながらも、人や町が動き出すといいですね。

この間に、自然や家族や健康や、今まであたりまえすぎていたことに 改めて尊さを感じる人や、じっくりと読書していた人も多いことと思います。 そんなひとときに、さとびがお供できたとしたら嬉しいのですが。。


夏号のための取材活動が、停滞していましたので、これからアクセルを踏んでいかなくては。



雑談

ステイホーム期間に、ズームなどオンラインの会議がまたたく間に広まりましたね。わたしも仕事や活動のうえで、何度か使っています。オンラインで済ませられることは済ませ、移動の時間やコストが節約できる良さもありますが(あ、本当は、感染予防なんですけど)、、、 コミュニケーションて、言葉だけでしているのではないんですよね。その人から空気を通じて伝わってくるものも含めてコミュニケーションしているのだと思います。オンラインでは、有機的なものが削がれてしまう感覚があります。コロナのおかげで、やっぱり「会う」っていいなあ、と思いました。直接会いたい人がいるって、幸せですね。


追伸

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本誌をもし気に入ってくださる方がありましたら、身近な人に教えてあげてくれませんか。


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