さとびこ編集室日記|100年住みたいのは自然にも人にもやさしい地域

自然と人のつながりを地域に根ざして考える奈良発ローカルマガジン「さとびごころ」を編集する「さとびこ編集室」より、日々の活動のことやお知らせ、雑談を綴ります。 雑誌づくりを通して、自然にも人にもやさしいあり方をみなさんとともに考えます。

タグ:たたら

安来市にある和鋼博物館には、とてもわかりやすいジオラマの展示があります。

その前に、鉄流しの様子をふりかえってみましょう。


昭和の時代の様子です。水路は斐伊川(やまたのおろちの伝説の舞台ですね)に注いでいます。昔は、鉄穴流しをすることによって下流の農民たちからは苦情が寄せられたそうです。しかし少しずつ折り合いをつけて、共存が続けられてきました。
水は同時に農民の大切な潅漑用の水でもあったので、砂鉄の採集は普通秋の彼岸から春の彼岸まで冬場の農閑期に限って行われました。

また、作業は農閑期を利用し農民のアルバイトによって行われたので、農民にとって良い現金収入源であるとともに、鉄山自体もこれらの季節労働に大きく依存していました。ちなみに、この期間に1つの鉄穴場で砂鉄100トン採取すれば御の字と言われました。

しかし、鉄穴ながしはいろいろな弊害ももたらしました。大量の土砂を切り崩すため、膨大な土砂が下流に沈殿し、川床があがって天井川となるので洪水の原因となったり、河水の汚濁により潅漑ができなくなったりしたのです。
そのため、鉄山師と農民との間で争いが起こり、藩命による鉄穴ながし禁止令がしばしば出されています。

一方では藩の事業として浚渫が行われたので農地は拡大し、畜産も盛んになりました。また樹木は30年単位で順送りに計画的伐採が行われたので、山の荒廃は起こりませんでした。このように、山陰の鉄山師は農、鉱、畜を複合経営し、安定した経営基盤を作り上げてきたのです。(日立金属HPより)
今では鉄分を含む土がお米を美味しくすることがわかっています。
仁多米は、斐伊川の上流部・奥出雲町の棚田で栽培されるお米。「東のコシヒカリ、西の仁多米」と呼ばれ、米・食味分析鑑定コンクールでは、頻繁に金賞を受賞しています。これこそ、かつてたたら製鉄がさかんに行われた場所です。

鉄穴流しによって得られた鉄分を多く含んだ砂は、高殿で製鉄されます。外観からは想像できませんが、高殿の地下の部分を作るには、地上と同じかそれ以上に手間暇がかかっています。


下の写真で、人が作業している部分は、炭で埋まってしまう箇所です。最初は木を埋めていきます。さらにその下も砂や木炭などで基礎作りされていますので、築窯は、まず穴を掘る仕事から始まったんだろうなと思います。

 
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これはやっと地下構造部分ができたところ。中央のかまぼこ型の部分は燃やして炭になったとき、凹んで平たくなるのでしょうね。炉はその上に作られます。

炭は上下2層構造。下層は一度作ったら壊さずに使う部分、上層の部分は、炉を使う(毎回作って壊します)度に突き固めます。写真は、つき固めているところですね。
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左右にあいているトンネル状のもの(左しか写っていませんが同じものが右側にもあります)は、いったん木を埋めてから粘土で上部を固めたあと、燃やして空気層にし、炉の断熱層にしてあります。

地下構造ができ、床ができたら、ねんどを重ね固めて炉が作られます。大きなバスタブのような形をしており、左右側面の下のほうには穴が並んであけてあります。これは、天秤ふいごから送り込まれる風を通すための穴です。建炉は、鉄の品質を左右する最も重要な要素でした。

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  炉が完成すると、左右には天秤ふいごが設置されます。今の時代では到底手に入らないような巨木が使われていました。

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もののけ姫に出てくるふいごと違って、一人で足踏みするタイプです。3人でチームになり、交代しながふいごを休みなく動かし続けたのだそうです。死にそう。たたらの話は、どこの工程をとっても死にそうにしんどいです。

ふいごで風を送り込み、炭を燃やして、鉄穴流しで出来た砂鉄を入れます。すると炉の下のほうから、最初はカスのような鉄が流れ出してきて、最終的には鋼の原料が炉の底にたまります。これをどうやって取り出すと思いますか。ここから、炉を壊すんです。

出てきたものは、不純物を含むの塊(鉧 けら と言います)で、その中にまだらのように鋼に適した部分が含まれています。これを砕いて、上質の部分だけを取り出すのです。

取り出した鋼がこんな感じ。
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若者が村下の説明を読みふけっています。
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出雲のたたらが評判がいいのは、コークスを焼くのではなく炭を焼いて作ることによって、炭のもつ還元効果が関係しているそうです。住宅の地下にも炭を敷く(望ましいのは埋没だと思いますが)手法があり、健康にいいと言われています。そんな話を思い出させる構造です。炭には何かありますね。やっぱり。

大変大雑把な説明ですので、詳しくは前の記事でリンクしてある和鋼博物館のHPをお読みください。ここまでの概略をつかんでから読むと、少しわかりやすいのではと思います。
これを書いているわたし自身、細かいところになると「?」となる部分があります。次に訪ねることがあったら、そこを質問してみたい。またそれが楽しみです。

高殿のジオラマがこちら。
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菅谷たたら山内にも行ったことがありますので、その時見学した高殿も「ああ、こうなっていたなあ」と思い出が蘇りました。

日立金属作成の動画があります。https://youtu.be/yvJGmLuhwzs  
(現在の村下である木原さんも、日立金属の社員さんでした。)  

館内では、実物として現存する天秤ふいごを体験できるようになっており、当時の労働を少し実感できます。また、たたら操業の様子を録画したビデオも見ることができますので、これは見学のプロローグとして、ぜひ見ることをお勧めします。日立金属の立場から作られた上記のビデオと重なるところもありますが、視点がまた違っていますので、より理解が深まるでしょう。
このようなたたら操業の技術が継承されて、安来鋼のブランドになっています。
2階には、日本刀が作られるプロセスも理解できる展示や、近世から現代へ通じる安来鋼の歴史がわかる展示があります。なぜ、あのぼこぼこの鋼の原料が、ピシッと日本刀になっていくのか、よくわかりますよ。いつか刀鍛冶師を訪ねてみたいと、ゆるく妄想していますが、その日のためにも勉強になりました。



また、今スノーピークという会社の名前をよく聞くことはありませんか。新潟県三条市にあるアウトドアブランドですが、創業時は金物問屋です。安来鋼は江戸時代後期からは北前船によって、三条市ともつながっていました。

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当時の物流を通して、活気が伝わってきます。
和鋼博物館へ行かれることがありましたら、ぜひ2階のほうまで見学しましょう。1階の展示室からも登っていけますが、階段がさりげなさすぎて見逃しそうになります。玄関ロビーからも行けます。


たたらの文化を生んだ森とたたら者たちの物語に触れてみてください。


 

追伸 出雲のおいしいもの 絶品の蕎麦

献上蕎麦 羽根屋本店 出雲市今市町549  TEL0853-21-0058

羽根屋

我々、絶対に立ち寄ります。もともとは特に蕎麦好きではなかったのですが、30年前にこの店に出会ってから蕎麦の概念が変わりました。注意:本店に限ります。平日の開店と同時に行くのがお勧め。週末休日は大混雑です。



 

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個人的な用事もありで島根県へ行きましたので、二度目となる「和鋼博物館」へ行ってきました。
長文になりますが、よかったらお付き合いください。

安来鋼(ヤスキハガネ)というものをご存知でしょうか。ホームセンターの農機具コーナーに行って、鎌を見てみてください。少し高いほうの鎌には安来鋼が使われているというラベルが貼ってあります。高級な包丁も安来鋼です。また、奥出雲では年に数回の古来のたたら吹き製法により玉鋼がつくられ、日本刀の原料として全国の刀匠に配布されています。

島根県安来市には、日立金属株式会社の安来工場があり、ここで生産されるのが安来鋼。その前身で明治23年に設立された雲伯鉄鋼合資会社が、たたら吹き製法による鋼づくりをする技術を持っていました。かつての流通の拠点であった安来港に近い場所に、和鋼博物館があります。江戸時代には全国の80%を生産していました。その流れが今、日立金属株式会社安来工場につながっているのですね。


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たたらは、弥生時代には屋外で原始的な形で行われていたようですが、博物館にあるような砂鉄を原料とする和鋼(わこう)の製法は6世紀ごろに始まったそうです。「もののけ姫」に出てくるので知っている人もあると思います。中国山地には全国的にみても砂鉄の取れるところが集中しています。ですから、古くからたたら製鉄が行われたのも頷けます。

和鋼博物館には登場しませんが、島根県で知らない人はいないという名家として、750年続く田辺家があります。現在の田辺長右衛門さんは25代目(長右衛門は代々の当主が継ぐ名前です)、まだ40代という若さです。田辺家は和歌山県から島根に来てたたら製鉄を広めた家。製鉄には、くぬぎ・こならなどの雑木から作る大量の炭が必要(※)であるため、田辺家は次々と山林を買い、広大な山林王となりました。大正時代に500年続いた たたら製鉄業を廃業され、今は30社以上の企業・団体の役員をされています。

※ たたらと森林の話はこちら。
1回のたたら操業に必要な炭の量は約10~13トンで、これは森林面積にすると1ヘクタールとされます。たたらが盛んであった江戸時代後半には、年間約60回程度の操業が行われました。また、たたら炭を焼くにふさわしい樹齢は30~50年とされます。したがって、一ヶ所のたたらでは、1800~3000ヘクタールの森林面積が必要となり、中国山地の鉄師が所有する森林面積が膨大であるのは、たたら炭確保のための努力の結果なのです。(和銅博物館HPより)

さとびとしては、山林王には注目してしまいます。25代田辺長右衛門氏を紹介している こちらの記事もよかったらお読みください。

さらに、田辺氏が奥出雲に復活された 菅谷たたら山内(さんない=たたら製鉄する人たちの集落)では、廃業するまで使われていた高殿(たかどの=製鉄の炉があるところ)が復元されており、一見の価値があります。こちらは安来市ではなく、西南へ離れた雲南市(旧飯石郡吉田村)にあります。博物館ではジオラマで展示されている炉が、菅谷たたら山内では実物を見ることができます。先の田辺氏の記事にもありますが、たたら作りをする人は、たたら者と呼ばれる荒くれ者たちだったとのこと。

そして、砂鉄をとるための鉄穴流し(かんなながし=土中に2%しかない砂鉄を取るため、山を崩し、土砂を段階的に高低差のある水路を通して下流へ流す)をはじめ、炭を得るための用材の伐採や炭焼き、そして炉の設置(たたら操業の都度、炉を設置して壊します)やたたら操業そのもの(村下(ムラゲ)というリーダーのもとに行われます。酒造りでいうと杜氏のよう)、鍛冶にいたるまで、その仕事は過酷で厳しいものでした。そんな物悲しさも感じてもらいながら、中国山地が生み出したすぐれた鋼のことを知っていただけたらと思います。

博物館は撮影オッケーでしたので、写真をいくつかご紹介します。

今回、目をひいたのは炉の地下に膨大な量の炭が埋め込まれていることでした。炉の部分にばかり目がいきますが、炉が設置されている高殿は、地下に炭が埋め込れた大変な建造物だったのです。(地下は一度作ったら繰り返し使われ、地上の部分は操業の都度取り壊されました)

菅谷たたら山内


次ページ(後ほどアップします)に続きます。






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