さとびこ編集室日記|100年住みたいのは自然にも人にもやさしい地域

自然と人のつながりを地域に根ざして考える奈良発ローカルマガジン「さとびごころ」を編集する「さとびこ編集室」より、日々の活動のことやお知らせ、雑談を綴ります。 雑誌づくりを通して、自然にも人にもやさしいあり方をみなさんとともに考えます。

カテゴリ: 気なる縄文

ついに、12月になりました。
わたしの誕生日ももうすぐです。それはいいですね。

その前に。
11月の最後に。
さとび旅をしました。



「森と出会った縄文人」というタイトルを見てしまったら、行くしかないと思っていた特別展。
福井県小浜市にある福井県立若狭歴史博物館へ、最終日にギリギリセーフで行ってきました。

さとびごころvol.36で「縄文の奈良」を特集してから、いつか「その2」をやりたいと考えながら、すでに3年もたってしまいました。それでも諦めておりませず、この展示にも興味をそそられたのです。

展示の最終日に合わせて計画を部員さんに立ててもらいました。
部員さんは、旅行の計画を立てるのが大好きで、またうまく考えてくれるんですよ。
以前から「行きたい行きたい」と行っていた神社も、「わりと近いからついでに行こうか?」と組み込んでくれて、しかも「再び行きたい行きたい」と行っていた池田町という自然豊かな町の、会いたい人にも会うことができました。

初日

真名井神社
お昼ごはん(海鮮料理のレストラン)
若狭歴史博物館
ホテル着(越前市武生)経費削減のためリーズナブルなホテル。なのに、清潔!よかったです。
焼き鳥の店(福井県民のソールフードと呼ばれる「秋吉」)

二日目

池田町へ
お昼ごはん(池田町のお蕎麦やさん)
せっかくなので武生の町をプチ見学

というスケジュール。
この中からさとびに関係あるのは博物館ですが、別途池田町のお話も紹介させていただきます。

若狭歴史博物館は、今年5月にも一度訪ねました。その日の本命は、鳥浜貝塚の展示たっぷりの「若狭三方縄文博物館」でしたが、その前に立ち寄った場所です。


今回は、その鳥浜貝塚の発見60周年記念イベントとのことでした。

5月にゲットした同館のパンフレットに、この記念イベントの紹介がありました。


 

今からおよそ1万5千年前、縄文時代が始まった頃のこと。日本列島の植生は、氷河期の慣例な気候に育つ木々から、より温暖な気候に育つ木々の森へと大きく変化しました。それからおよそ9千年の間、鳥浜の地に遺跡を残した人々は、移りゆく環境のなか、植物とどのように関わったのでしょうか。現代人もおどろきの植物利用の様子をご紹介します。

 
チラシはこちら

21-11-28森と出会った縄文人

入り口にドーンとカゴの出土品が置いてありました。展示品の撮影はNGでしたので、残念ながら展示品の写真はございません。

今でも、農作業に必須な道具として箕(み)がありますね(ほとんどがプラスチックですけど)。
み
ウィキペディアより

ついこないだ、昭和の時代まではあたりまえに使われていました。
ここに、縄文が見えます。

展示されたカゴの編み方は、現代にそのまま通じるもの。
ずっと、ずっと、この伝統が現代にまで受け継がれてきたのですよね。蔓性の植物も多用されていました。もちろん木材も。

今では工芸品として残っていることの多い植物素材の生活の道具たち。エコロジカルな実用品、日用品としてたくさん、たくさん、復活してほしいと思います。

もうひとつ、注目だったのは鳥浜貝塚の代名詞的な出土品であるところの、
漆でした。

vol..36でも紹介したとおり、世界最古の漆は日本で、ここ福井県の鳥浜貝塚で発見されています。

1万2千年前のウルシ木片 世界最古、福井で出土(日経新聞)

12月1日現在、まだ読めます。有料記事なのでさわりだけ。

以前は中国から持ち込まれていたと考えられていました。
なんでも大陸から持ち込まれたということになっているものが多い中、漆は日本に自生していたのではないかということがわかってきたのは嬉しいです。
つまり、「すでにあるものを、豊かに活かす」ことに長けていた人たちです。世界の先住民族に共通してますね。世界史を見ると、人のものが欲しくて殺して奪ってきた人たちもいましたよね。。。。


ここで、割り込みになりますが、一口に縄文時代と言ってもおよそ1万年近い間を指しますよね。最初と最後では生活様式は全く違うというほどに変化しているのです。草創期には、直前の旧石器時代の暮らしの名残りが感じられますし、晩期には近づいてくる弥生の予感がしてきます。ひとくくりにはできませんよね。
ですので、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期というふうに、区分されています。考古学ファンの方にとっては常識かもしれませんが、わたしなどは、特集を組むために調べてみて認識したことでしたので、気にしていない人もたくさんおられるかと思います。
気にしなくてもいいのですが、おすすめとしては、草創期と早期だけで前半分を占めるくらい長くて、あとになるほど期間が短いというのは覚えておくといいのではと思います。「前期」と言ったところで6000年前ですよ(「前」じゃなくて、「まんなか」だった)。
一般に縄文時代の土器として有名な、あのアーティスティックな火炎型土器は、中期の文化ですので縄文時代全体からすると後半です。
同じく有名な、宇宙服を着たような土偶、青森県亀ヶ岡の遮光式土偶は晩期。縄文時代の終わり頃です。
遮光器土偶
若狭三方縄文博物館で買い求めた遮光式土偶のレプリカ

時代区分によってどんなふうに違うのかなあ?と思って展示を見てみるのも、面白いですよ。わたしは、「これを現代に活かすとしたら…」という観点で見るのが好きです。
割り込みはここまで。
 

 鳥浜貝塚というのは、草創期から前期に形成されたもので、日本人の暮らしのルーツが眠っていた場所といえそうです。縄文遺跡といえば圧倒的に東日本が有名ですが、鳥浜貝塚が見つかった小浜市は福井県でも南にあり、奈良から日帰りでもいけなくもない距離ですので(ちょっとしんどいか)、興味がある人は、若狭三方縄文博物館のほうへぜひ行ってみましょう。

 そして一方で、vol.36を片手に奈良にある縄文コンテンツを見てみてください。さらに面白く感じられますよー。
vol.36表紙
 


土器や糞石に残る脂質からわかる縄文人の食べもの。

昨今は、遺伝子解析の技術が進んでいますよね。その成果?なのか、GMO食品などができちゃったり。その反面考古学では、昔はわからなかったことがわかるようになってきています。そんな展示もありました。
土器や糞石のかけらを粉にして機械にかけ、動植物のDNAを調べるのです(大雑把な言い方ですみません)。すると、日本では初期の頃には土器で魚介類を煮炊きするほうが多かったんですって。
森の民である前に、海の民であったのですね。木船であっちこっち、動きまくっておられたようです。

 縄文人の主食は堅果類!と思っていましたが、草創期の寒冷な時代には針葉樹が多かったはずなので堅果類よりも魚介類を主に食べたのかなあ。。その後今の日本の植生(落葉広葉樹・照葉樹)に近づくにつれて、小動物や森の恵みを食べるようになったのかなあ。海の民だったからこそ、海苔も消化できちゃうんですよね、きっと。
 

長々と書きましたが、そろそろこのへんで報告を終わります。あなんセイコ、縄文好きやねんなあ、というお話ではございますが、自然と共生するにはこの時代がまずもってお手本と考えておりますので、やはり縄文の奈良2をやらないとなあ…と、思います(勉強が足りんけど)。



次回は、前回福井県を訪ねたきっかけになった人と町に再会するため、池田町に行ったことを書きます。
前回…というのが、こちらです。
 

2度目にして、やっと少しずつ、訪問した場所の位置関係がわかりかけてきました(笑)


 
 



 






 
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みなさん、こんにちは。あなんの雑談の時間です。

学生時代、定期テストが近づくと、妙に面白い本が見つかってはまってしまう…罪悪感と焦りの中で最後まで読んでしまう…という経験はありませんか。
わたくし、定期テストはないのですが、毎日5件か10件くらいは「これをやる」と思っていることがありながら、いつも2件か3件くらいまでで日が暮れてしまいます。そんなときに、買い置きしてあったこの本に手をつけてしまいました。

『最強の縄文型ビジネス イノベーションを生み出す4つの原則』
谷中修吾・著 日本経済新聞出版社 1600円+税

最強の縄文型ビジネス

著者は、現代の社会を「弥生型」と呼び、計画的・競争的・コンプライアンス・期待オリエンティッド(オリエンティッド=志向)を特徴と捉えています。

これに対して、縄文型は、直感的・協調的・フリーダム・感謝オリエンティッドを特徴とし、弥生型に傾きすぎたために生じてしまった歪みを、縄文型を取り入れることで調和させていこうと提言しています。

縄文という言葉に興味がある人は、これらの縄文型の特徴が理解しやすいと思いますが、本の最初のほうは、縄文時代とはどんな時代なのか、それを会社におきかえたらどうなるか(縄文を会社に置き換えることって少し無理があるような気もしましたが)という説明がありますので、どなたでもわかりやすいと思います。

繰り返し繰り返し4つの原則の話に戻ってきますので、少しグルグルした印象もありました。



 
4つの原則については、雑誌「DiscoverJapan」 2018年9月号の特集「縄文人はどう生きたか?」でも掲載されていました。(この雑誌にはお世話になりましたー。どうやらこれがきっかけで生まれた本のようです)



 「自然に感謝する縄文型」はスタートアップの企業に多く、「着実に稲刈りをする弥生型」は大企業に多いようです。スタートアップの企業が中央官庁やグローバル企業と手を結ぶことで、お互いにメリットがあるということを著者の実体験にもとづいて語られていました。大手企業が事業計画にしばられて苦しくなってしまっているところを解決できるというお話のようでした。

重要なことは、これらの原則を知って実行するにあたっては、どうしても避けられない大前提があるということです。実のところ、それさえあれば縄文型か弥生型かということも超えられると思います。
現代社会は、そこの部分を大切にしなくなったのかもしれません。
それ、書いていいでしょうか。いえ、やめておこうかな。
直接お会いした人には何でもお話します。
なんならこの本、お貸しします(^^)。


スタートアップ企業でもない編集部は、グローバル企業と手を結びたいという願望があるわけではございません。それはさておき、共感できるところはやはり、この時代、この方が「なぜ今縄文なのか」に気づいておられる部分でした。

現代は誰もが日常生活で自然環境の異変を感じざるをえない現実を経験しています。このまま弥生型ビジネスを続けていては、地球の未来がありません。
なぜ、縄文でビジネス論なのか。筆者としては「人と自然が調和した世界を望むならば、今が選択のラストチャンス」であると、縄文人が現代人にメッセージを送ってくれているように感じるわけです。
 


期せずして、さとびづくりをするにあたって、一人で歩き始めるしかなかったわたしが自ずとに身につけた方法は、直感を生かすこと、人とのつながりを大切し誠実さだけは固く誓うこと、何の組織にも囚われていないのだから自由にやること、一人でできることは限りがあるので人のお世話になるしかなく、かえずがえすも感謝しかないこと、などを考えると、弥生型社会からはみ出した落ちこぼれと思っていましたが、これはまあまあ縄文型寄りだったのでは気づかされました。

しかしその反面、謙虚に「受け入れなくては!」と感じたことは、現実社会が弥生型である以上、その弥生型から信頼してもらうには、弥生型の作法をいつでも守れるということも大切だという指摘でした。
ここは、ドタバタあたふたではありますが、今後とも努力していきたいところです
(みなさま、いつもお許しくださり、恐れ入ります…)。 



2016年ごろ「日本人て、何?」という疑問が降って湧いてきて、縄文時代にたどりつきまし
た。そして、基礎知識も危うい状態で直感に従い三内丸山遺跡やら、奈良県内の博物館やらを歩きまわり、本も読み、ネットも読み、2019年の冬号(vol.36)で「縄文の奈良」という特集をつくりました。わたしの潜在意識にも縄文人からのメッセージが届いたのかなあと思います。

三内丸山遺跡入り口

三内丸山遺跡6本柱

三内丸山遺跡は、広大で見どころ無限大。次に行くときは、滞在して通いたい。1日ではもったいない。


わたくしが考える縄文型は、ビジネス論には届かず、

「暮らしにおける自然への依存度を高める(または取り戻す)ことによって、自然が守られることが自分の命を守ることになるという必然性をつくり、調和した地域社会へつなげていく」

ということです。
 

人と自然が調和した世界を、今、いろんな立場の人が、いろんな分野で望み、選択しようとしているのですね。それが再び歪んだ弥生型に取り込まれることなく、今度こそ、歴史的転換を迎えることができるよう、ちいさなマガジンも、(会社ではないにしろ)「地域に根ざした暮らし」におきかえて、未来につづく今このときを選択していきたいと思います。

 

 
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誰も待っていないのはわかっているのですが(どこかで聞いたフレーズ)、またまた気になる縄文のコーナーです。




翡翠って、ありますよね。日本の国石になっています。
翡翠日本の国石


古代の宝物の中でよく見ますよね。ピカピカに磨かれていて、穴があいていて。翡翠の大珠は縄文時代から作られており、発見したのは新潟県糸魚川の原産地周辺を舞台とする集団で、そこから全国各地に広がったものが見つかっています。良質な翡翠の産地は、ほとんどが糸魚川産です。その翡翠がどうしたの?っていうのが今日のお話です。
 
奈良県の縄文遺跡からも、翡翠が見つかっています。
『奈良県の縄文遺跡』(松田真一著・青垣出版)のコラム1では、布留遺跡(天理市)堂垣内(どうがいと)地区の発掘調査で見つかった、長さ4.8センチ、幅2.6センチの翡翠性の大珠が紹介されています。

布留、、、といえば、石上神宮ですね。布留遺跡もその近く。時期としては中期から晩期にかけてのようで、同じような場所から弥生式の出土品も出ていますし、物部氏ゆかりの石上神宮も近いですし、このあたりは縄文から古代にかけてずっと、栄え続けたのかもしれないですね。

出土品は、近くの天理参考館(松田先生が館長です)にあるようなので、今度また注目してみなくちゃ(以前行ったときは、石器や土器に気を取られていましたので)。



翡翠って、めちゃくちゃ硬い石なんだそうですね。
通常の石器は、削りやすいものを素材としているのに対して、翡翠はダイヤモンドに次ぐ硬さなので加工が難しい。これをどうやって磨き、穴まであけちゃうのか、彼らは方法を知っていました(石英の粒を使うんです)。
しかも、これは狩猟採集の道具ではなく、腹の足しにはなりません。黒曜石やサヌカイトならば、ナイフとして必須でしたでしょうけれど、翡翠はそうではない。それなのに、これが全国流通していた、今でいうと大ヒットしていたということですね。

腹の足しでなければ、心の足し。精神的な価値があったということですね。そのために、加工に大変に手間のかかる翡翠の大珠を喜んで(?)作り、配りまくっていたのです。つまり心の豊かな人たちだったことがわかります。食べられる、食べられないだけの暮らしではなくて、何かを信じていたということです。それが謎に感じられるほどに、現代人のほうが信じるものを忘れてしまったということですね、たぶん。

ここで、小林達夫先生のお話(実際には著書)を聞いてみます(改行は、わたし)。



さまざまな特産品の中でもヒスイ(原文まま)はとりわけ特別な存在である。

第一に、その原産地は富山県寄りの新潟県糸魚川市の山中1箇所に限られていて、北海道、長崎などに類似品はあるものの、他にはない。そのくせ縄文列島全域に広く行き渡っている。

第二に、これまでいろいろな種類の石器材料として利用されてきた石材とはまるっきり異質の特色をもつものである。つまり、いわゆる身体装飾品に使用されてきた同類の滑石などに比べて、歯がたたないくらいの圧倒的硬さを誇る。入手が困難で、かつ加工が容易でない。いかにも玉類の材料としては極めて不利な代物というわけである。それにもかかわらず、ヒスイに執着を示してやまないところに問題がある。それほどの事情があってのこととせねばならない。

 


交易についての氏のご意見(改行わたし)



これまでの研究では、ヒスイの特産物を求めに応じて頒布したのであろうが、その見返りに何を手に入れたのであろうか、という問題に集中してきたかに見える。それが普通の考え方であり、ヒスイに限らず、アスファルトや黒曜石や貝輪の交易についても、同様な味方が主流である。

たしかに、タダでモノを手にいれることはできず、無償で自分の持ち物を譲ることはしない、という現代の経済社会に身を置くと、ついそうした考え方に傾きがちであろうことは首肯づける。

しかし、縄文人事情は違う。縄文人の間では、モノのやりとりに見返りを期待していなかったのである。

 

今でも、見返りを期待しないで与えるということにはありますし、なんだかとってもいいもので、心を動かされます。世知辛くなったとはいえ、わたしたちの文化の中に、あたりまえのようにそれができるという要素を持っているのは、縄文時代からの習慣だったのでしょうか。

氏によると、モノとモノは交換しなかったけれど、気前の良さを見せつけて相手の心をつかむのが目的だったそうです。これもひとつの取引ではありますね。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
喜びや感謝や友好の表現だったかもしれない、などとわたしが想像してもいいのかな。

ただ与えるだけ。それによって、自分が嬉しい。相手が喜んでくれるとなおさら嬉しい。取引ではないけれど、めぐりめぐって忘れた頃に「あのとき、ありがとう」って返ってきたり、場合によっては予想もしなかった形で返ってきたりする。だけど、何も見返りがなかったとしても、最初に自分が嬉しかったことはいつまでも消えない。

そんな交易を、もっと取り戻したいなあ。
経済社会のルールに直結させるのは、無理があるかもしれないけれど、そのルールの潤滑油になっているのはやはり、こういう文化ではないかと思う。それが信頼なんじゃないかなあ。



翡翠がとれるという糸魚川、学生時代に何の気なしに旅行で通過しただけだったけれど、もう一度、どうしても訪ねてみたくなり、近年、あらためて行ってみました。その話に行きたいのですが、なかなかたどり着けませんので続きは次回の投稿で。



 


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こんにちは。最近時々書いている「気になる縄文」のコーナーがやってまいりました(といっても不定期ですが)。
最近、読者の方から「僕も縄文に興味がある」とメッセージをいただきました。その方と、いつか縄文お話会遊びができるのでは????と、楽しみです。


昨日、結果がでなくてもかまわない、というふうなことを書きました。それと同時に、「結果がすべて」「結果を出す」という言葉も頭をよぎっていきました。
どんなに努力しても、結果がでなければ無に等しい。そういうふうに、ゆるやかに責められてきたように思います。その通りでもありますから否定はしませんけれど、結果が出ないのにとんでもなく長いこと、延々とあることを続けた人たちがいます。なぜ?なんのために?誰にもわかりません。それが縄文人たちが作っていたモニュメントです。

IMG_1155-2
(2016年に訪ねた三内丸山遺跡にて)


ストーンサークルのようなもの。土手のようなもの。木の柱のようなもの。濠をめぐらせたもの。それらの組み合わせ。いろいろあります。
現代のような土木機械があればたちまちできてしまいそうなものでも、当時のことを考えたら石をひとつ運ぶだけでも、木を倒すだけでも、実に大変です。しかもそれは、数ヶ月や数年ごときではなく、驚くべきことに20世代から50世代にかけて延々と作られ続けたものだったのです。

まるで、ゴールなんて気にしていない。「先祖代々やってきてるんで、俺たちもやってます」です。
小林達雄氏は、「幾世代もかけて継続する理由が厳然としてあったという事実は無視できない重大事である」といいます。
あらそう、すごいね、不思議だね、で終われない。重大なことだと。
 



理屈の具体的な内容は容易には知ることができない。とにかく現実に500年以上、一世代30年と見積もれば、寺野東(※1)で22世代、三内丸山(※2)で50世代にわたるほどの長期工事であったことを物語っている。その間意味が維持され続けていたとなれば、むしろ長期間の造営工事そのものに重大な意味を認めなくてはならない。



記念物を完成させることに目的があったのではなく、未完成を続けるところにこそ意味があったとみなくてはならぬ。むしろ完成を回避して、未完成を先送りし続けることに縄文哲学の真意があったのである。未完成とは完成をあくまで追い求めることに他ならないのだ。

(『縄文の思考』小林達雄・ちくま新書)

 

 
未完成を目的とするかのよう。


そういえば、自然にも人にもやさしい地域の完成形なんて、あるのでしょうか。
わたしも完成を目的としていないのではないかと思い始めました。
いつまでたっても未完成ということは、いつまでたってもまだ見ぬ可能性があるとも言えます。
「結果がでるまでは意味がない」のではなく、信念を持って続ける中にプロセスが生まれ、そのひとつひとつにはきっと意味が生まれていくのだと思うのです。


縄文人がモニュメントを作り続けた、そこまでの理由とはなんでしょう。わたしにもわかりませんが、それはもう工事そのものが祈りだったのではと思えます。祈りとは、「本心では信じていないおまじない」や「自分の利益と引き換える」ためというよりも、祈ることが何か物理次元での現実とつながっていると考えていたのではと、勝手に推測したくなるのです。今、人間の意識が現実を作るという考え方が少しずつ広まっているように感じますが、縄文人は最初からそんなことを知っていたかのようです。



遺跡を科学的に検証して事実を解明することからは、この目に見えない部分を知ることができません。ですから研究者さんのスタンスによって、ここの解説は微妙に違っていて、あまり触れない人もいますし、推理する人もいます。そして「わからない」という結論になります。誰にもわからないのでしたら、想像してもいいかしら。

IMG_1184-2

(2016年に訪ねた三内丸山遺跡にて)
 

未完成が目的であったとしても、「今日はこの石をあそこまで運ぼう」「今日は木の柱を立てるための丈夫な縄を編もう」といった目標はあったことと思います。その完成形は自分が生きているうちには見ることができないけれど、未完成の一部になることは確か。





ゴールを目指し、最短距離を図り、合理性を追求し、急ぎ、競い、倒し、勝つことが一番素晴らしいことと思われがちな現代社会の中で、それとは真逆でありながら、なにかゆるぎない信念を感じるモニュメントづくりに、おおらかで新鮮な光を感じます。


縄文人たちの、謎の動機を想像しながら、わたしも未完成を目的とするほどの信念をもちたいと思いました。



※1  栃木県 寺野東遺跡
※2  青森県 三内丸山遺跡



 
PS
粛々と毎日書く雑談ブログ。気負わずに、PV数などもあまり気にせずに書けば、案外、書けるものですね(でも、4月からの1ヶ月でPVはすごく増えました。もともと、独り言メモのようなものでしたから伸び率だけならすごいです)。こんなんですけど、どうぞ、いつでもまた遊びに来てください。



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さとびごころ45号のお届けは、直接お届けする方たちを少し残すだけになり、次号からは発行してからお届けまでの期間をもっと短縮できる目処もたちました。
ゴールデンウイークも終わり、元の生活に戻る人も多いことでしょう。

今日はあまり時間がないので、タイトルどおりのことを書けないかもしれませんが、
毎日更新したい、というチャレンジ目標もありますので
書いてみます。

昨日にひきつづき、縄文の話題です。

先月、こんな記事を書きました。
 

炭が気になって仕方がないわたしの前に現れた一冊。
わたしの縄文話がまた始まった、と思う方もあるかもですね(^^:)


なぜ縄文なのかなあ?と我ながら思いますが、わたしはきっと21世紀型の縄文人になりたいのです。願わくば世界が(といっても気候風土の違いから全世界は無理ですが)縄文的になれば、きっと平和で楽しくなると思っています。そのために、自分が近づいてみたい。でも、21世紀型を考えるには知識が足りない。そこで、縄文が気になります。


この本にもありますが、縄文人は集落を作って暮らしていました。
それはもう、草創期の頃から始まっていたようです。
(縄文文化のピークはもっと後のようですけど)

その集落をムラと呼んでいたんですね。
もともと日本はどこもかしこも森林ですから、食べ物をもとめて移動しながら暮らしていたようですが、だんだんとひとつの場所に落ち着いて、ムラを作るようになったのです。
そこで、柱や壁で外との結界をつくり、安心して眠れる拠点を作った。
食べ物は周辺から調達。だいたい5キロくらいの範囲だったそうです。このゾーンをハラといいます。

今でも土地の名前にハラが残っていたりするのは、、、、関係あるんでしょうか??

ハラは原野ではなくて、安定して食べ物が調達できるよう、いわゆる持続可能な状態に調整しながら自然から採集しつづけるための場所だったそうです。

IMG_2276
 

それで、わたし、このハラのところにクロボクドができていったのかなあ、なんて今思っています。
三内丸山遺跡には、200人くらい集まれる集会場がありまして、「わあ、ここでライブがあったらいいなあ」なんて、思ったものですが、これはかなり大規模なタイプで、その後には集落のサイズは小さくなっていくんですね。大人数を養うために、広い面積で栗を植えて維持していたようですが、栗に依存するとなにかあったときに一気に食べられなくなる。それを学んだのだと、何かのドキュメンタリーでは語っていました。
IMG_2280
かの有名な6本柱(集会場ではなく、モニュメントです)
 

数家族が暮らす家が、輪を描くように並び、中央にはバブリックスペースがある、、、というのが標準的な集落のスタイルだったようです。
これ、小さな地域づくりですよね。

これを最小ユニットと考えて、そのユニットが組み合わさることで、土器づくり名人や、弓矢名人や、大工名人や、歌名人や、踊り名人や、織物名人や、料理名人や、、、、いろんな名人が発生してきて、「そのことだったら、あの人だわ」「あの人の歌が好きだわ」「自分にまかせて!大好きだから、やるやる!」なんていうコミュニティーがあったとしたら素敵だなあ(想像するのは自由ということで、お許しください)。それをハラという持続可能な自然に近い環境が支えている。ついこの間の時代まで、日本中にあった里山のように。


こんなコミュニティーを、現代でも作れたら、楽しそうだなあ。。。。
ムラとハラ、という言葉をかみしめながら、ときめいています。
(まあまあタイトルどおりになったかな)

参考
『縄文の思考』小林達夫著 ちくま新書


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