さとびこ編集室日記|100年住みたいのは自然にも人にもやさしい地域

100年住み続けたい奈良のための地域づくりマガジン「さとびごころ」を編集している「さとびこ編集室」からみなさんへ。 編集発行に関するお知らせや情報、編集部の思いなどをお伝えしています。

カテゴリ: SATOBITABI

さとびごころは、そんなにおしゃれ!な雑誌ではありません。
見苦しくないように、読みやすいように、…ということには
心をくだいているつもりですが、おしゃれ、、、というわけではないですよね。

おしゃれとは?

不思議です。なぜか、そう感じてしまう人やモノがありますよね。 

わたくしから見て、おしゃれ!な方は
ミナ ペルホネンがお好きであったりします。

そんな ミナ ペルホネンというカタカナが紙面に載ったことがあるのです。

https://satobigokoro.org/archives/1806

satobi39-12-13


それ以来、ミナペルホネンというカタカナは、ずっと脳内に残っていました。

「買わなくちゃ!」「欲しい!」という衝動にかられるというよりは
このブランドの人気に秘密とは何か、、、、のようなことがずっと気にかかっていたのだと思います。

そんなわたくしに、展覧会のお誘いがやってきましたので、兵庫県立美術館へ行ってきました。

つづく1
 

撮影OKの部分もありました。ルールを守ってスマホ撮影しました。その一部をシェアしますね。

エンタランスでは、わたくしの場合、タペストリーのデザインや取り付け方に目が行ったりします。
つづく2

最初のコーナーでは、タンバリンという有名な刺繍のデザインの誕生から発展までの物語が立体的に展示されておりまして、わたくし、あまりミナに詳しくなかったのですが、この物語を知ることで、大変上品で美しい模様だと思うに至りました。

こんな模様です。
つづく13
 
この刺繍。白い玉が円になって並んでいますが、ひとつひとつは微妙に違う形をしており、ゆらぎがあります。展示の説明を見て、知りました。
これを機械で刺繍(動画がありました)するには、きっと職人さんの努力がすさまじいのではないかと、素人ながらに想像しました。

海外に押されてしまっているはずの、日本の服飾の工場。ミナ ペルホネンが、そんな産業をささえたり、元気づけたりしてるのかもしれません。




つづく3

 圧巻の服の森。

コンセプトごとにコーナーが分かれていて、各コーナーを体験するような展示なので飽きません。

中でも、デザイン画のコーナーが気に入りました。

こんな絵画が部屋に並んでいたら、不思議に心が落ち着きます。幾何学的でない線のあたたかみ。心地よく目に響く色。これらは原画であって、さらにこれがテキスタイルになっていくのです。
非常に手間がかかっており、心に浮かんだことを、どうにかして具現化するための情熱を感じました。

つづく5

つづく12


つづく8
つづく9

つづく10

 

ところどころで、出会う言葉の前でじっと立ち止まってみたり。

つづく6

つづく11


さとびも、自分たちらしい を磨いていくしかありません。たしかに。


あまり何でも書いてしまうといけないような気がしますので、
このへんにしますけれども、気になる方は兵庫県立美術館へお出かけになってみてはいかがでしょう。

11月8日までです。

詳細は、こちら





 
  
  
このエントリーをはてなブックマークに追加

安来市にある和鋼博物館には、とてもわかりやすいジオラマの展示があります。

その前に、鉄流しの様子をふりかえってみましょう。


昭和の時代の様子です。水路は斐伊川(やまたのおろちの伝説の舞台ですね)に注いでいます。昔は、鉄穴流しをすることによって下流の農民たちからは苦情が寄せられたそうです。しかし少しずつ折り合いをつけて、共存が続けられてきました。
水は同時に農民の大切な潅漑用の水でもあったので、砂鉄の採集は普通秋の彼岸から春の彼岸まで冬場の農閑期に限って行われました。

また、作業は農閑期を利用し農民のアルバイトによって行われたので、農民にとって良い現金収入源であるとともに、鉄山自体もこれらの季節労働に大きく依存していました。ちなみに、この期間に1つの鉄穴場で砂鉄100トン採取すれば御の字と言われました。

しかし、鉄穴ながしはいろいろな弊害ももたらしました。大量の土砂を切り崩すため、膨大な土砂が下流に沈殿し、川床があがって天井川となるので洪水の原因となったり、河水の汚濁により潅漑ができなくなったりしたのです。
そのため、鉄山師と農民との間で争いが起こり、藩命による鉄穴ながし禁止令がしばしば出されています。

一方では藩の事業として浚渫が行われたので農地は拡大し、畜産も盛んになりました。また樹木は30年単位で順送りに計画的伐採が行われたので、山の荒廃は起こりませんでした。このように、山陰の鉄山師は農、鉱、畜を複合経営し、安定した経営基盤を作り上げてきたのです。(日立金属HPより)
今では鉄分を含む土がお米を美味しくすることがわかっています。
仁多米は、斐伊川の上流部・奥出雲町の棚田で栽培されるお米。「東のコシヒカリ、西の仁多米」と呼ばれ、米・食味分析鑑定コンクールでは、頻繁に金賞を受賞しています。これこそ、かつてたたら製鉄がさかんに行われた場所です。

鉄穴流しによって得られた鉄分を多く含んだ砂は、高殿で製鉄されます。外観からは想像できませんが、高殿の地下の部分を作るには、地上と同じかそれ以上に手間暇がかかっています。


下の写真で、人が作業している部分は、炭で埋まってしまう箇所です。最初は木を埋めていきます。さらにその下も砂や木炭などで基礎作りされていますので、築窯は、まず穴を掘る仕事から始まったんだろうなと思います。

 
IMG_1422
IMG_1423

これはやっと地下構造部分ができたところ。中央のかまぼこ型の部分は燃やして炭になったとき、凹んで平たくなるのでしょうね。炉はその上に作られます。

炭は上下2層構造。下層は一度作ったら壊さずに使う部分、上層の部分は、炉を使う(毎回作って壊します)度に突き固めます。写真は、つき固めているところですね。
IMG_1424

左右にあいているトンネル状のもの(左しか写っていませんが同じものが右側にもあります)は、いったん木を埋めてから粘土で上部を固めたあと、燃やして空気層にし、炉の断熱層にしてあります。

地下構造ができ、床ができたら、ねんどを重ね固めて炉が作られます。大きなバスタブのような形をしており、左右側面の下のほうには穴が並んであけてあります。これは、天秤ふいごから送り込まれる風を通すための穴です。建炉は、鉄の品質を左右する最も重要な要素でした。

IMG_1425
 


  炉が完成すると、左右には天秤ふいごが設置されます。今の時代では到底手に入らないような巨木が使われていました。

IMG_1426

もののけ姫に出てくるふいごと違って、一人で足踏みするタイプです。3人でチームになり、交代しながふいごを休みなく動かし続けたのだそうです。死にそう。たたらの話は、どこの工程をとっても死にそうにしんどいです。

ふいごで風を送り込み、炭を燃やして、鉄穴流しで出来た砂鉄を入れます。すると炉の下のほうから、最初はカスのような鉄が流れ出してきて、最終的には鋼の原料が炉の底にたまります。これをどうやって取り出すと思いますか。ここから、炉を壊すんです。

出てきたものは、不純物を含むの塊(鉧 けら と言います)で、その中にまだらのように鋼に適した部分が含まれています。これを砕いて、上質の部分だけを取り出すのです。

取り出した鋼がこんな感じ。
IMG_1433
  


若者が村下の説明を読みふけっています。
IMG_1432

出雲のたたらが評判がいいのは、コークスを焼くのではなく炭を焼いて作ることによって、炭のもつ還元効果が関係しているそうです。住宅の地下にも炭を敷く(望ましいのは埋没だと思いますが)手法があり、健康にいいと言われています。そんな話を思い出させる構造です。炭には何かありますね。やっぱり。

大変大雑把な説明ですので、詳しくは前の記事でリンクしてある和鋼博物館のHPをお読みください。ここまでの概略をつかんでから読むと、少しわかりやすいのではと思います。
これを書いているわたし自身、細かいところになると「?」となる部分があります。次に訪ねることがあったら、そこを質問してみたい。またそれが楽しみです。

高殿のジオラマがこちら。
IMG_1430

菅谷たたら山内にも行ったことがありますので、その時見学した高殿も「ああ、こうなっていたなあ」と思い出が蘇りました。

日立金属作成の動画があります。https://youtu.be/yvJGmLuhwzs  
(現在の村下である木原さんも、日立金属の社員さんでした。)  

館内では、実物として現存する天秤ふいごを体験できるようになっており、当時の労働を少し実感できます。また、たたら操業の様子を録画したビデオも見ることができますので、これは見学のプロローグとして、ぜひ見ることをお勧めします。日立金属の立場から作られた上記のビデオと重なるところもありますが、視点がまた違っていますので、より理解が深まるでしょう。
このようなたたら操業の技術が継承されて、安来鋼のブランドになっています。
2階には、日本刀が作られるプロセスも理解できる展示や、近世から現代へ通じる安来鋼の歴史がわかる展示があります。なぜ、あのぼこぼこの鋼の原料が、ピシッと日本刀になっていくのか、よくわかりますよ。いつか刀鍛冶師を訪ねてみたいと、ゆるく妄想していますが、その日のためにも勉強になりました。



また、今スノーピークという会社の名前をよく聞くことはありませんか。新潟県三条市にあるアウトドアブランドですが、創業時は金物問屋です。安来鋼は江戸時代後期からは北前船によって、三条市ともつながっていました。

IMG_1436

IMG_1437

IMG_1438


当時の物流を通して、活気が伝わってきます。
和鋼博物館へ行かれることがありましたら、ぜひ2階のほうまで見学しましょう。1階の展示室からも登っていけますが、階段がさりげなさすぎて見逃しそうになります。玄関ロビーからも行けます。


たたらの文化を生んだ森とたたら者たちの物語に触れてみてください。


 

追伸 出雲のおいしいもの 絶品の蕎麦

献上蕎麦 羽根屋本店 出雲市今市町549  TEL0853-21-0058

羽根屋

我々、絶対に立ち寄ります。もともとは特に蕎麦好きではなかったのですが、30年前にこの店に出会ってから蕎麦の概念が変わりました。注意:本店に限ります。平日の開店と同時に行くのがお勧め。週末休日は大混雑です。



 

このエントリーをはてなブックマークに追加

個人的な用事もありで島根県へ行きましたので、二度目となる「和鋼博物館」へ行ってきました。
長文になりますが、よかったらお付き合いください。

安来鋼(ヤスキハガネ)というものをご存知でしょうか。ホームセンターの農機具コーナーに行って、鎌を見てみてください。少し高いほうの鎌には安来鋼が使われているというラベルが貼ってあります。高級な包丁も安来鋼です。また、奥出雲では年に数回の古来のたたら吹き製法により玉鋼がつくられ、日本刀の原料として全国の刀匠に配布されています。

島根県安来市には、日立金属株式会社の安来工場があり、ここで生産されるのが安来鋼。その前身で明治23年に設立された雲伯鉄鋼合資会社が、たたら吹き製法による鋼づくりをする技術を持っていました。かつての流通の拠点であった安来港に近い場所に、和鋼博物館があります。江戸時代には全国の80%を生産していました。その流れが今、日立金属株式会社安来工場につながっているのですね。


IMG_1441

  


たたらは、弥生時代には屋外で原始的な形で行われていたようですが、博物館にあるような砂鉄を原料とする和鋼(わこう)の製法は6世紀ごろに始まったそうです。「もののけ姫」に出てくるので知っている人もあると思います。中国山地には全国的にみても砂鉄の取れるところが集中しています。ですから、古くからたたら製鉄が行われたのも頷けます。

和鋼博物館には登場しませんが、島根県で知らない人はいないという名家として、750年続く田辺家があります。現在の田辺長右衛門さんは25代目(長右衛門は代々の当主が継ぐ名前です)、まだ40代という若さです。田辺家は和歌山県から島根に来てたたら製鉄を広めた家。製鉄には、くぬぎ・こならなどの雑木から作る大量の炭が必要(※)であるため、田辺家は次々と山林を買い、広大な山林王となりました。大正時代に500年続いた たたら製鉄業を廃業され、今は30社以上の企業・団体の役員をされています。

※ たたらと森林の話はこちら。
1回のたたら操業に必要な炭の量は約10~13トンで、これは森林面積にすると1ヘクタールとされます。たたらが盛んであった江戸時代後半には、年間約60回程度の操業が行われました。また、たたら炭を焼くにふさわしい樹齢は30~50年とされます。したがって、一ヶ所のたたらでは、1800~3000ヘクタールの森林面積が必要となり、中国山地の鉄師が所有する森林面積が膨大であるのは、たたら炭確保のための努力の結果なのです。(和銅博物館HPより)

さとびとしては、山林王には注目してしまいます。25代田辺長右衛門氏を紹介している こちらの記事もよかったらお読みください。

さらに、田辺氏が奥出雲に復活された 菅谷たたら山内(さんない=たたら製鉄する人たちの集落)では、廃業するまで使われていた高殿(たかどの=製鉄の炉があるところ)が復元されており、一見の価値があります。こちらは安来市ではなく、西南へ離れた雲南市(旧飯石郡吉田村)にあります。博物館ではジオラマで展示されている炉が、菅谷たたら山内では実物を見ることができます。先の田辺氏の記事にもありますが、たたら作りをする人は、たたら者と呼ばれる荒くれ者たちだったとのこと。

そして、砂鉄をとるための鉄穴流し(かんなながし=土中に2%しかない砂鉄を取るため、山を崩し、土砂を段階的に高低差のある水路を通して下流へ流す)をはじめ、炭を得るための用材の伐採や炭焼き、そして炉の設置(たたら操業の都度、炉を設置して壊します)やたたら操業そのもの(村下(ムラゲ)というリーダーのもとに行われます。酒造りでいうと杜氏のよう)、鍛冶にいたるまで、その仕事は過酷で厳しいものでした。そんな物悲しさも感じてもらいながら、中国山地が生み出したすぐれた鋼のことを知っていただけたらと思います。

博物館は撮影オッケーでしたので、写真をいくつかご紹介します。

今回、目をひいたのは炉の地下に膨大な量の炭が埋め込まれていることでした。炉の部分にばかり目がいきますが、炉が設置されている高殿は、地下に炭が埋め込れた大変な建造物だったのです。(地下は一度作ったら繰り返し使われ、地上の部分は操業の都度取り壊されました)

菅谷たたら山内


次ページ(後ほどアップします)に続きます。






このエントリーをはてなブックマークに追加

ある日、月ヶ瀬村を車で移動中のときのこと。

高山ダムを見ながら、周囲の風景をぼんやりみていると、山並みが見えました。
その山並みの中に、気になるものが。
月ヶ瀬村2_0997_0996

集落が見えるのです。
麓ではなく、山頂付近。。。

月ヶ瀬村2_0997

家がたくさん並んでいます。

気になるので行ってみました。写真の右のほう、芝生の土手のように見えるのは公園でした。
家々は、今すぐ旅館になりそうな堂々としたお屋敷が多いように見えました。

月ヶ瀬というと、梅園の周辺や温泉などに行くばかりで
まだまだ知らないことがたくさん、ありそうです。

月ヶ瀬には、「月ヶ瀬健康茶園」さんがあり、本誌にも何度か登場していただきました。
久しぶりに尋ねたいなあ。 

天神風の道公園_0998

ここ以外にも、まわりの山を見てみると、上にいくつも集落があるのです。

昔の人は尾根を移動していたと言います。
山を登り降りするよりは、尾根づたいのほうが合理的だったと。

そんな時代から続く集落なのでしょうか(勝手な想像)。
月ヶ瀬村の人たちにとっては、あたりまえの風景かもしれませんが、
奈良市民にとっては、意外。。。




 
このエントリーをはてなブックマークに追加

7月最後の週末は台風の影響で、土曜日は、楽しみにされていたイベントが中止になったりしましたね。
日曜日は、雨も上がり、週明けの今日は、また真っ青な青空が広がっています。


SATOBITABIの報告、そろそろ終わりに近づいてきました。(頑張って最後まで書きろう)
鶴の湯旅館を出てから向かったのは鹿児島県。
予定は、焼酎の酒蔵さんを2つ訪ねること、縄文遺跡の見学。

午前中は、明治2年創業の白金酒造様。火山灰が元になってできた軽石がたくさんとれるとかで、
それを材料にできている石倉の酒蔵が博物館になっています。
白金2


白金3

日本酒特集(さとびごころ vol.32 2018winter)をしたことがあるため、お酒には興味があります。鹿児島では、日本酒は少なく、焼酎がメインです。お酒が作られるようになったきっかけは日本酒と似ており、こちらでも創業者(※)の方は地主さんで、お米がたくさんとれるのでお酒にしようということだったそうです。それが日本酒でなく、焼酎になったのは、日本酒を作るには暖かすぎるという風土の違いから。なるほどでした。

※初代川田和助氏の名前をとって「和助」という銘柄もあります。

お米から麹を作り、1次発酵したものが酒母です。そこに、蒸した芋をたっぷりと入れて2次発酵させたものを蒸留したのが焼酎。蒸留のシステムがおしゃれに展示されてありました。コーヒーでも蒸留するとコーヒーの香りのする透明な液体になるそうです。
白金1

昔ながらの蒸留の方法で作られているのが「石蔵」という銘柄です。試飲しました。焼酎は、ストレートで飲むと(飲むというより、ちょっとだけ含むのがせいぜいですが)どちらかというと刺すような味わいがあると思っていましたが、石蔵のまろやかなことと言ったら驚きでした。

白金かめ


こちらが白金酒造さんならではの、現役のシステムです。誰かが、感心して見つめています。
白金4

先ほどの石蔵を始め、上手にすすめてくださるので、あれこれ試飲させていただき、ほぼ、酔っ払いました。日本酒だけでなく、焼酎も飲むようにしようかなと思います。


この白金酒造の近くに、大きな楠があると知り、一目見ようと立ち寄りました。

 くす1
くす2

その場に立つしかわからないであろう迫力です。
この楠が話ができるとしたら、今の時代のこと、どう思うかインタビューしたくなりました。

市内に戻り、夫の希望で西郷隆盛さんゆかりの場所を訪ねたのち、県下最大の繁華街、天文館(第25代薩摩藩主・島津重豪が天体観測や暦の研究施設として明時館(別名「天文館」)を建設したことに由来)にあるホテルへ。

晩御飯は、白金酒造さんオススメの、鹿児島中央駅前、「かごっまふるさと屋台村」で。
25店舗の小さなお店がひしめいていました。その中で空いてそうなお店で、白金酒造さんの焼酎を名物キビナゴの天ぷらでいただきました。美味しかった!(残念なことに、今年で終了とのこと。ビルが建つそうです)

西郷さんの展示を見たせいか、鹿児島弁に興味がわき、お店の人に聞いてみますと、生粋の鹿児島弁を話すのは年長者だけで若い人はあまり話さないそうです。残念。ぜひ、消えないうちにマスターしていただきたい。覚えたての鹿児島弁。

あいがとさげもした(ありがとうございました)。

 
九州や東北の、メロディーのような方言を聞くと癒されます。現地の方同士が話していらっしゃると、意味はちんぷんかんぷん。我々、旅の者にはわかりやすく話してくださり、イントネーションが残るのみです。それが癒されるのです。そういうことって、ありません?

鹿児島では、桜島がしばしば見えるのでした。鹿児島の人にとっての桜島は、
日本人にとっての富士山のように、アイデンティティーの象徴なのだと思います。
 
ぐっすり眠って、最後の日を迎えました。

次の酒蔵さんへ行く前に、鹿児島の縄文を見ておきたいと、「上野原縄文の森展示館」へ。
縄文0


9500年前(縄文早期)から定住した跡が見つかっています。さとびごころ (vol.36  2019 winter)で「縄文の奈良」を特集した通り、縄文時代の文化には興味津々。
縄文1

広いフロアの壁から壁へとスケール感のあるジオラマが作られており、
縄文の暮らしをリアルに想像できるよう工夫が凝らしてあると思いました。
同時に、この時代の人々が何を信じていて、どんなことを大切にしていたのか
展示だけを見ていると、どうしても型通りの説明になるため、感じとるのは難しいかなあとも思います。「こんな人がこんなこと言っている」という風に、考古学の範囲を超えても許される自由な想像や仮説に触れることができたらどうかしら?

隣接の埋蔵文化財センターでは、修復の現場を見学できました。とても親切に対応していただきました。
次の予定が迫っていたため、あまり長居はできなかったのですが、目的は達成。

最後の予定地は、もう1つの酒蔵、京屋酒造さんへ。
東九州自動車道から東へはみ出して、宮崎県に突入。森の景色が美しくて、足を止めて写真を撮りましたが、全く伝わってこないですね(笑)
森林


宮崎県に入ると、山の景色が違うことに気づきました。ぐっと人工林が増え、あちらこちら積極的に伐採されていました。皆伐された後が植林されている場所もありました。林業が盛んなのはよく耳にしていますが、リアルに感じます。今、日本の山では無茶な皆伐が問題視されていますが、私がみた森林はどうだったのでしょう。。。

日南市に有機栽培した原料から焼酎づくりをされている蔵があると聞き、見学を申し込んだ京屋酒造さん。農作物を作る部門を、子会社として農業生産法人化されています。全量をまかなうだけの収穫量ではないとおっしゃいますが、会社の方向性が現れている取り組みだと思いました。ちなみに、お米は合鴨農法です。鴨の管理も大変に手間がかかるとのことです。また、有機栽培の芋は形が不揃いのため、洗浄にかかる手間も多いとのことでした。高価な焼酎になるため、ブレンドして使われているそうです。

京屋1

京屋3


蒸気機関車のような機械(コルニッシュボイラー)から蒸気を発生させ、イモや麹になる米を蒸すのに使われていました。
京屋4

全ての焼酎を甕だけで仕込むそうです。機械化するところは機械化し、味に直接関わる仕込みのところは甕仕込みにこだわっておられます。
京屋かめ
 

蔵をくまなく案内していただいてからは、試飲もさせていただきました。
夫の職場で取り扱っているジンもありました。ここの住所が日南市油津(あぶらつ)と言うそうで、それを文字って、柚子の風味のある「ユズジン」ができています。
京屋2


京屋酒造さんを後にして、もと来た道を引き返し、志布志港へ向かいました。
港に近づくと、船に積みあげられるのを待っているかと見える木材の山が見えました。通り過ぎながら、「え?まだ?もっと?」と思うほど、広大な面積のところに木材が積み上げられていました。
森林や木材は、どうしても見てしまいます。。。。

久しぶりに乗ったサンフラワーは、快適でした。

サンフラワー
 

今回は長い旅になりました(通常はせいぜい2泊程度です)。
頭の中がパンパンになる程、いろんなところへ行き、話を聞きました。
その記憶も放っておくと、「いつだったかなあ?どうなったかなあ?」となってしまうため、後々それを掘り起こすための自分のメモとしても書きましたので、長々とした記事になりました。最後までお読みくださった方、ありがとうございました。

これからも、興味の湧いたところにはできるだけ自分の足で出向き、さとびごころ作りに生かしていきたいと思います。




 
このエントリーをはてなブックマークに追加

なんだか長編になってしまいました。
川に興味のある方であれば、楽しんでいただけると思いますが。。。
熊本県の話はこれで終わりになります(最後は鹿児島県!)。

宿泊した鶴の湯旅館の若者も、ジュンペイさんと同様、話題のひとです。 みんながダイスケさんと呼ぶ、土山大典さん。

鶴の湯旅館の記事は、こちらがポイントがおさえてある感じです。

法律的に許されていた時代最後(?)の木造三階建て。ジュンペイさんのおすすめ宿にもなっている築60年以上の旅館を、一人で復活させてきりもりしている(前の記事で、洪水時の昔話を聞かせてくれた)ダイスケさんも、今回ぜひ会ってみたかった人。
初日の予定を終え宿まで案内してくれたジュンペイさん。いっしょに座敷に上がってくれてテーブルを囲んで雑談し「明日もう一度訪ねるかも」とゆるく約束しました。 

鶴の湯2 
 
ごはんは野菜と魚中心で、すべて地元産の食材から、ダイスケさんが手作りしています。毎回添えてある梅干しがちょうどいい塩加減、酸味加減、ふっくら加減。

鶴の湯
 

鶴の湯旅館では、2泊。古い旅館の修復は大学生たちと一緒にプロジェクトとして進行中とのこと。まだまだ傷んだ部分はありますが、建具、窓、階段など、素敵な造りがたくさんあり、落ち着く場所でした。

二日目は、夫が鮎釣りする気満々だったのですが、水が濁りすぎて断念(かなり無念であったと思われます)。ぽっかりと予定があくことに。
鶴の湯4

雨で濁るのは、土砂が混じっているから。その土砂は、瀬戸石ベースの少し上流にある瀬戸石ダムから(雨のため)放流をしているからとのことでした。堰を閉じていると、ダムが土砂でどんどん浅くなり水害の危険が増す。放流すると、たまった土砂が下流を濁す。土砂を浚渫する取り組みはあるそうですが、とても追いつかないとのことでした。

もし、自然のままであれば、、、、昔の人が受け入れてきた綺麗な水の洪水は伴うかもしれませんが、家のかさ上げ(ダム周辺の家々は、幾度も家をかさ上げしていました)などのお金はかからないのでは。。。わたしたちは、再生可能エネルギーとしての水力発電には注目していますが、これからの水力発電は必要な場所に小規模に作る環境負荷の低いものが望ましいのではないか、ダムは役割を終えようとしている時代なのではないかと思います(願いも含まれていますが)。


鮎釣りキャンセルのぶん、自由行動。まずは朝から近所の道の駅に行ってみることに。すると館内で、ダム撤去の資料展示をしており、開店直前だったのに早々に開けていただき、見せていただきました。

余談。そこで出会ったのが東京出身のミチノさんという男性。ミチの駅のミチノさんです。
聞けば、ジュンペイさんやダイスケさんとも友だちとのことでした。その足で、博物館に行ってみようと市街地エリアへでかけるとですよ、、、、なんと、パンクしました!
これは、もう笑い話として面白いのですが、スペースの都合上、後で直接会った人にだけ話します。

パンクから立ち直り、博物館はあきらめ、午後から再びRebornへ行くと、気配を感じたジュンペイさんが現れてきました。

「瀬戸石ベースへ行きましょうか」
「望むところです」

昨日話し足りなかったこと、再確認したいことなど、ゆっくり話せました。瀬戸石ダムのことも。荒瀬ダムと違って、熊本県のものではないため事情が異なりますが、ダム撤去の研究者であるジュンペイさんは、対立しない方法でダムを撤去できないか考え中です。この、所有者、住民、行政などなど、それぞれのメリットや主張を統合して資金のことも含めてアイデアを構築しようとされているところに共感しました。
夕方からは思い立って川辺川もいっしょに見に行くなど、ともに楽しく過ごすことができました。ジュンペイさんは、川遊び大好き、自然大好き、増水した川の流れを見ながら「ここ、面白そうだなー!」と、はしゃいでいます。そろそろお別れかと思うと、惜しい気持ちになりましたが、そのぶん、またここに来たいという思いも固まりました。次は他にも誰かといっしょに来れたらいいな。

鶴の湯旅館に帰ると晩ご飯です。鮎の塩焼きをいただきました。
鶴の湯鮎の塩焼き

いつも緩やかに LPレコードから音楽が流れています。
なんでも、貴重な真空管アンプが置いてあり、ピカピカしてました。
それをBGMに、ご飯の後はダイスケさんともゆっくり話せました。ダイスケさんヒストリーと、ここに集う人々の話(地元のキーパーソンの方や学術関係の方、音楽関係の方、いろんな人が訪ねてこられるそうです)。イベント活動や修復プロジェクトや、これからのことなども。

鶴の湯3
 

そうそう、ここは温泉が湧くのです。旅館の近くの川に温泉が流れ込んでおり、そこが暖かいので藻が育ち、鮎がたくさん集まるらしいです。夫は残念でたまらないようです。ちなみに彼は鮎釣り師としては、下北山村の若き師匠に弟子入りしたばかりの初心者でありまして、師匠は「球磨川で、ですか?」と言っていましたが、内心で「100年早い」と言いたかったことは、わたしにもわかりました。キャンセルは、神様からの「まだまだよ」というメッセージだったのでしょうか?


朝。旅館をたつ日です。

ダイスケさんが、梅干し持たせてくれました。その気持ちが、しみじみ嬉しい。次に来るときは、晴れでありたい。水の澄んだ球磨川を見たいと思います。

さて、今夜はフェリーに乗って奈良へ帰る予定。九州最後の1日は、人生発となる鹿児島県へ。焼酎蔵と縄文遺跡を巡ります。

つづく 






このエントリーをはてなブックマークに追加

梅雨が明けた奈良では、弾丸豪雨が降りました、
そして、今は、快晴です。
公園の木からセミの合唱が聞こえてきます。
窓から入道雲が見えます。
夏だなあ!

さて、九州へ行ってきました その3 です。

竹組でのインパクトを引きずりながら八代市へ向かい、その日はホテル泊。
新幹線の駅前のホテルでしたが、周りは田んぼが多く、駅前にも商店街はなく、
意外な感じがしました(在来線の駅周辺が市街地でした)。

今回の旅は、宿泊費と交通費でお金がかかるので食費は節約!
美味しいところ巡りはお預けです。夜は車中の仮眠だけで運転し続けてきた夫は、爆睡でした。

翌朝は、いよいよ今回の旅のメインの目的に関わる人に会いに行きました。

メインの目的とは、日本で初めてダムが撤去された荒瀬ダム跡を訪ねること。
それを知ったのは、2018年3月の撤去完了から半年も過ぎた今年になってからのことでした。

日本で? ダム撤去? それはアメリカでありえないことだと思っていました。

「球磨川の清流、再び我が手に 全国初、挑んだダム撤去」
https://r.nikkei.com/article/DGXMZO33338220U8A720C1960M00?s=2

この記事にあるように、私たちは、ダムが撤去されることを知った若者がこの地に移り住み、リバーガイドをしているという情報を得ていました。その人にぜひ会いたかったのです。
溝口隼平(みぞぐち じゅんぺい)さん。(アポを取ってくれたのは夫です。感謝します)
球磨川の周辺を案内してもらい、午後から夫の念願であるラフティングをする約束です。
でも、本当の目的は、この若者と、とことん話がしてみたい、その一心でした。
(いや、夫の本当の目的は鮎釣りでした。結果的には叶わず!!!このへんの話は、また別のところで書くことにします^^)

目の前に現れたジュンペイさんは、小柄でがっしりした体格。研究者と聞いていましたが、その物腰にはプロのサービス精神を感じました。

ジュンペイさんが経営しているReborn (リボーン=再生って、素敵じゃないですか)


折しも、台風が近づいているというニュースが毎晩のように流れていました。
しかし、幸いにも少し西にそれてくれたため、なんとかラフティングは可能とのことでした。

その一言でほっとしながら、河口から瀬戸石ダムまでを案内していただきました。

ここで、少し地理的な確認を。

荒瀬ダム跡は、九州のこの辺にあります。
荒瀬ダム跡
もうちょっと近づきましょう
荒瀬ダム跡2

河口からそんなに遠くない。
坂本駅と、葉木駅の間に荒瀬ダム跡が位置しています。

八代駅の向こう側には 赤と白のストライプの高い煙突が見えていました。八代は工業都市。竹組の山崎さんが勤めていたのはこの工業地帯だったのでしょう。荒瀬ダムのあった町、坂本町からも現役時代に勤めに行ってた人が多いとか。

 
先ほどのジュンペイさんの言葉を借りて、このツアーの概略を。まずは地上でのガイド。

干拓地の成り立ち、干潟の生物多様性の様子、八の字堰の歴史と現状、発電所跡や撤去事業の範囲、支流の堆積物の浸食具合などなど、よりディープに流れを楽しむためのスペシャルツアー

全部を書くと、それはそれはまた長くなってしまいますが、1つだけ、「八の字堰」について。
これは治水で有名な加藤清正の時代に作られた治水利水ための堰を言います。川の中央に自然石(江戸時代にコンクリートはないので当然ですが)を、漢字の八の字になるように積みました。下流側が広がっていて、上流側がすぼまっている様子をイメージしてください。
遥拝堰
写真はこちらからお借りしました。

私は、加藤清正の優れた治水の知恵については本で読んでいましたので、この記事を見たときは嬉しかったものです。

清正の「八の字堰」復活 八代市の球磨川、50年ぶり 自然再生と「親水」に期待
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/509827/

でも、、、この堰、現在の遥拝堰の下流側に復元されていて、川が分断されていることには変わりがない??? 
現在の遥拝堰(これにも機能があり、単純に否定はできないのですが)はよくあるコンクリート製の堰で、魚道もよくある「どうやって鮎が上るの?」というタイプです。その割には、「自然再生」とまでいうのはちょっと、誤解を招くのではないかなー。
加藤清正先生だったら、いかがご覧になりまでしょうか。。。

でも、八の字堰の知恵が知られるのはいいことだと思います。(私もその一人。ここに八の字堰があったことを知ることができました)

これからは、川を上って行きます。球磨川沿いの道を坂本町へ。
道中もいろいろ、ポイントに立ち止まってはガイドをしてもらいました。残念ながら、省略。。

ここで、これから登場する名前のある場所の位置をあらかじめご紹介します。
坂本駅から瀬戸石駅

 
お昼はジュンペイさんオススメのレストランで。この家の方もダム撤去に尽力されたと聞きました。
「溝口さんは、なんでまたダム撤去に関心を持たれたんですか」
などと、そもそも話をお聞きしながら、あっという間に食べ終わりました。


和嶋2
モデルはジュンペイさんと夫
和嶋1


食事の後は、少し上流にあるジュンペイさんの拠点、Rebornで、ボートを積みます。
ジュンペイさん
あらためまして溝口ジュンペイさん。Rebornにて。2児のパパです。
運ぶ0
積み込み。

さらに上流へ。



荒瀬ダム跡に着きました。

ダム跡は、展望できるスポットになっています。ダム跡が残してあるのもいいな、と思いました。
荒瀬ダム後


お疲れ様、荒瀬ダム。戦後の復興を支えてくれてありがとう。でも、辛い思いをしてきた人も、生き物もあったの。これからは、自然にも人にもやさしい技術がもっと生まれてくるように、一緒に願っていてね。 


参考

出展 http://www.arasedamtekkyo.hinokuni-net.jp/02_page/09_kirokueizou/09_kirokueizou.htm



現場にあった案内板より
撤去前


撤去後

ダムの上流の部分の川の姿が変化しています。

案内板

荒瀬ダム撤去案内板

この経緯については、最初の方でリンクした記事にありますが、現地に行ってみて痛感したのは、
文中にある「地元の思いを受け止め」という一言の意味の重さと深さでした。

「昔ながらの清流を願う」というだけではない、深刻な悩みがあったのです。

ダムがあることで土砂がたまり、水位が上がる。洪水によって冠水すると、昔のような綺麗な水による冠水ではなく、土砂がへばりつき異臭を伴うものでした。
その夜の宿となった「鶴乃湯旅館」のダイスケさんは、ダムに沈んだ家の子孫です。家は、百済来川(地図参照)の辺りにありました。

「ひいお爺さんの時代に、ダムが出来て、この場所に移動して旅館を始めました。ダム湖でボート合宿する生徒たちの常宿になっていました。そのひいお爺さんの話では、昔は水害が当たり前みたいなところがあって、洪水の時は電化製品などをどんどん2階にあげて守っていたけど、水が引けば元どおりなので、それが畳替えや家の修復のタイミングにもなっていたりして、結構共存していたみたいです。
でも、ダムが出来てからは水ではなくてヘドロなので、片づけが大変で、とても我慢できないものだったらしいです」

旧坂本村議会がダム継続反対の意見書を可決したのは、2002年(平成14年)9月。
清流も、暮らしも、命も守るための、地域の有識者を中心とした粘り強い活動が、政治的幸運もあって、やっと実を結んだのだと思います。

ダムが撤去され、かつての川の姿が蘇り、失われていた「瀬」が見えるようになりました。その今でさえ、私には道と水面がとても近いと感じました。これで増水したら。。。。この恐怖と悩みは、今も坂本ダムの上流に残る瀬戸石ダムのある地域にとっては現在形でした。

ダムが出来た後の水害も、自然災害とされるそうです。自然災害だったのでしょうか。昭和40年、57年と甚大な水害があったことを思うと。。。

こんな話は、また直接会った友達に伝えてみたいと思います。


荒瀬ダム跡を後にして、さらに上流にあるラフティングのスタート地点 瀬戸石ベースを目指します。

さて、いよいよ川遊び!

上流にある瀬戸石ベースは、ジュンペイさんのもう1つの拠点。ここには、図書がずらりと並び、ラフティングに必要なパドルなどの道具も揃っています。。そこから川に入って、(ボートを積んだ場所の)Rebornまで下るのです。

瀬戸石ベースは、瀬戸石駅という駅のど真ん前にありました。

瀬戸石駅について 参考
旅人が偶然であった地元のおばあちゃんの話を読んでみてください。
 https://ameblo.jp/aru-king/entry-12102037790.html

瀬戸石駅の上流にあるのが瀬戸石ダム。(瀬戸石ダムのことを書くのは別記事にしないと無理がありそうです)

私は、ベースに並んだやたらと興味をそそられる本を、あれこれとつまみ読みしながら帰りを待つことにしました。気の合う仲間が集ったり、ダムの話をしたりできる素敵な場所。元は酒店だったそうです。
その名残りで棚が多く、今はそこに本や道具が並んでいます。

私たちを八代駅で迎えてくれるまで、ここには静岡県から来られた新聞記者の方がいらしたそうです。
静岡県でもダム撤去の動きがあるようです。その記者さんが残していかれた新聞記事を見せていただくと、さとびごころ 夏号で鮎の記事を企画している時に読んだ本の著者の方が載っていました。高橋勇夫さん。繋がっていくんですね。

台風が九州の西を通過中。雨は小雨にとどまっているものの、球磨川は増水しています。

球磨川は大きな川でした。そして、とても濁っていました。
下北山村の川が、雨の日でさえほとんど濁っていなかった夏の取材の日のことを思い出していました。
尺鮎が釣れるということで、鮎釣り師の間では有名な川なんだそうですが。。。。

ジュンペイさん曰く。。

「鹿の食害で森林が荒れていて、土砂の流出がものすごいんです」

とのこと。こんな大きな川を濁すほどの土砂が、雨が降る度に流れて行ってしまうということは、、、
山の土はどうなるのでしょう。上流にあるダムの土砂の堆積はどうなるのでしょう。

球磨川

普通ならキャンセルになるレベルのコンディション。ただ、夫がカヌー経験者であることや風向きがいいことから、ラフティング可能と判断してもらうことができました。

行ってくるぞ
行ってくるぞと勇ましく。もうワクワクですね、これ。


私には判断力がないので、少し心配でした。でも、二人を信じます。

まずはよいしょよいしょと川岸までボートを運び、漕ぎ出して行きました。
運ぶ2

運ぶ3

運ぶ4

運ぶ5


本を読んでいるうちに、元気に帰ってきた二人。お疲れ様。
しばらくまたジュンペイさんと話をしてから、
今夜の宿である鶴の湯旅館へ移動です。

つづく

下記はReboenさんの記事です
 
このエントリーをはてなブックマークに追加

「熊本へ行ってくる」 と、周りに話していたら、「竹組に行ってみてー」と言う声をいただきました。

竹組って何?

すると衝撃の投稿に出会います。

FBの皆様お久しぶりです。

久しぶりに報告が有りますので、読んでやって下さい。

1か月程経ちましたが、熊本地震から3年目の、

4月16日に「株式会社 竹組」を立ち上げました!

これから一年中竹切りが仕事になるという、竹切りマニアにとっては夢のような会社です笑

◎何をするのか?

当たり前ですが竹を切ります。

◎どんなとこの竹を切るか?

放置竹林です。

ウチのも伐ってくれという方はメッセージ下さい!

九州各地で、かなりの問題になってる放置竹林を竹組のメンバーで間伐して、光の入る美しい竹林を創っていきます🎋

すでに去年から下請けも合わせ、15へクタール程を熊本竹林組合で切りまくって来ました。

今年は「株式会社 竹組」になって、自社で約10ヘクタール程を管理して製品作り、筍生産をやっていきます。

伐った竹は、植木町で10月から稼働予定の工場にて、低温炭素窯で焼き上げ、竹の炭素を生成します。

低温炭素は水質浄化、空気清浄、デトックス商品になり東北や、アジアへも輸出が決まっております。

なんと一年目から1億円以上の売り先が決まってしまい!?!?

ガンガン竹を伐って、竹害という社会問題のひとつを解決しながら、若手がしっかりと稼いでもらえる事業になる予定です。

そこで、

▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽

▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽

竹組で働いてくれる仲間を募集します!

我こそはという方、ご連絡宜しくお願いします。

【条件】

18歳から40歳位までの男性

研修期間1か月 時給1250円

研修期間後チェンソー講習会を終えた方は

時給1500円以上

初期メンバーは10月からは日当15000円くらいでやっていこうと思ってます。

がっつりと一緒に社員やってくれる方も募集!!先ずはバイトからスタートですが

週4日勤務で月収25万円程度

ボーナス付、社会保険付、海外研修年1回

未だ決まってはいないけど、竹組卒業後に自分のやりたい事がやれるように 、8年勤務で退職金500万から1000万は出せたらと考えています。

応募は

asobinokuni@gmail.com

園田まで

 https://www.facebook.com/sonmituyoshi.sonoda


今年4月に立ち上げて、すでに1億円の売り先が決まっており、週4日勤務で月収25万程度。
竹炭を生かした取り組みはよく聞きますが、「低温炭素釜」ってなんでしょう。
竹の炭素、っていわゆる竹炭とどう違うのでしょう。
そもそも、園田さんて、どんな人??


謎だらけながらも期待値大きめで向かいました。しかし、直前にして社長の園田さんは都合が合わず、会えないことに。そして、待ち合わせ場所の道の駅にやってきたのは部長の山崎直輔(やまさき なおすけ)さんでした。

「部長といっても、まあ、僕と園田しかいないんですけど(笑)」

後日のツイートでは5名の採用があったとか。
https://twitter.com/asobinokuni 

竹組5名採用


謎めいたまま、まずは、竹林を見せていただきました。美しかったです。

竹組竹林

 
「この竹林の持ち主の人は、タケノコが採れる竹林にして欲しいって言う要望があり、僕たちで整備している場所です。この竹もビジネスの原料になる予定ですが、今はここに保管してます」

この他にも、まだあるようなのですが、時間の関係もあり山崎さんとゆっくりお話しさせて抱くことを優先させていただきました。

地元のカフェまで車で移動。

山崎さんは、地元出身でもとはライブハウスで働いていたそうです。園田さんとは、ライブハウスつながりの仲間。なんと、ここでライブハウスと言う名詞に出会うとは。(阿南と個人的なつながりのある方はお分かりかと思いますが、阿南家とライブハウスは親和性があります)

山崎さん自身は、その後実家が冷凍食品の会社を経営していた縁で関東の関連会社へ修行へ。そこで、スパルタ教育を受けて、今度は地元(熊本県八代市)で新規に立ち上がる会社へ移動。そこでの働き方が無茶なスケジュールで、開業までに24時間レベルで働かないと間に合わない状態を経験し、「これ、なんか違う」と悟って退社。2015年のことです。その時電話したのが園田さんでした。

「俺、会社辞めたんだ。なんか仕事ない?」
「 仕事、あるよー!」
「俺、家がないんだけど、家ある?」
「家、あるよー!」

嘘みたいな会話の直後、園田さんが運営しているシェアハウス(?) のような場所の一画に住むことに。そして、そこで出会った女性と今は結婚してるんだそうです。まるでミラクル。

山崎さんの話だけでも、記事が1つできそうですが、園田さんはさらにミラクルでした。
10代の頃はやんちゃ。(ああ、全てを記憶していません。録音もしていません。ごめんなさい)
東京生まれだそうですが、幼少の頃から熊本市在住とのことです。 
山崎さんを通して知る園田さんは、とにかく閃きと行動の人。

ツイッターのプロフィールを見ると、、、、


自然栽培果樹農家6年目! 熊本竹林組合で竹を地域の資源に。 20人から3万人規模のイベントを年に10本程ディレクション。愛妻家。
 


いや、このような普通の感じではありません。山崎さん曰く、「ヒッピー文化」の影響を受けている人。


ヒッピー(英: Hippie,Hippy)は、1960年代後半にアメリカ合衆国にあらわれた欧米の伝統、制度などそれまでの考えかたにしばられた価値体系を否定する、ボヘミアニズムなどとならぶカウンターカルチャー(COUNTER CULTURE)の一派、およびそのムーブメント。

 
今でもそんな生き方をしている先輩が存在し、そんな人たちから話を聞くことで、世代を超えて、彼らのような若者たちの間にも生き続けているのでした。
そして、これはもう、一言では説明しにくいのですが、何もないところから人や資金までも生み出してしまうかのようなミラクルな人でした。

竹で暮らしたい。竹はあるけど、どうしよう?そこでツイッターで「竹で何かしたい!」と投稿したところ、秋田県の会社から「竹を買うよ」との返事。その会社が欲しいのは、西日本に多い孟宗竹。熊本県なら興味ありとのこと。竹を低温炭素釜で処理すると、どうやら微粒子になるようです。それをペットフードに混ぜるとフンの臭いが消えると言う効果があり、需要があるそうです。他にも、マスクの中に入れ込むことで吸い込む空気を浄化するなどの活用方法もあるとか。

しかし、釜がない。すると、釜のメーカーは見つかったものの、お金がない。そのお金は秋田の会社が「買うよ」と言ってくれたそうなのです。

怖い。本当ですか。でも、事実らしいのです。

唖然とするストーリーでしたが、そこまでの信頼を得るには、園田さんの日頃の活動や人柄、人間関係構築能力、コミュニケーション能力、行動力、アイデア力、はったり力(?)あらゆることが含まれた経緯があるのだと感じました。

竹組の活動はまだ始まったばかり。低温炭素釜の稼働は10月からです。これからも、またいろんなドラマがあるのでしょう。また、園田さんは、このプロジェクトに安住することなく、並行していくつものプロジェクトを動かしておられるそうです。大口の受注に依存せず、次のことやまさかのことを考えて動かれているのではと思いました。
面白いドラマには、いつも危機とそれを乗り越えるシーンが出てきますが、そんなものすごく面白いドラマが現実に展開されていくのではないかと思えました。

そして今回お会いできなかった園田さんに、いつかぜひお会いして、竹組のその後を伺いたいと思いました。

山崎さんとの記念撮影。私たち阿南家までもが写ってしまい、すみません。 でも、記念ですからお許しください。

竹組山崎さんと

 

株式会社竹組   〒861-0136 熊本県熊本市北区植木町岩野48-1 (頂いた名刺の住所) 
事務所 〒861-1344 菊池市 七城町 蘇崎809-9(HPにある住所)
 https://takegumi.co.jp
(まだまだ絶賛 構築中のサイトのようです)


このエントリーをはてなブックマークに追加

38号のご紹介の途中ですが、九州に行ってきました。

福岡、熊本、鹿児島。

個人的な意味でいうと、早めの「夏休み」 ですが
さとび的な見聞を広める旅でもありました。
簡単にご報告します。(長く書けば、いくらでも長くなりそうなので)

福岡県、筑後川沿いにある うきは市の「大石堰」 という堰を見ました。
http://welcome-ukiha.jp/tourist/no/000020

大石堰

江戸時代、この地域は筑後川がすぐ近くを流れているにも関わらず、土地が高くて水を引くことができないため農民は水不足に苦しんでいました。そこで5人の庄屋さんが、藩に掛け合い、自分たちで命がけで工事を行い、筑後川から水を引くためにこの堰を築いた場所です。

川と住民との命がけのつながりを感じたくて、行ってきました。「このへんかなあ???」と尋ねると、たまたま地元の方らしきおじさんがいました。連れ(夫ですが)がお声をおかけしたのがきっかけで、私たちが興味を持っていると感じるや、次々と訪ねるべきスポットを軽トラで案内してくださるのでした。その颯爽たる決断と行動力、、、、この方、どんな人??

現代のうきは市には、この江戸時代に始まる水路(水害で元の堰は残っておらず、350年経った今では現代風に改良され大石堰になっています)が、町中に伸びており、2000丁歩の農地を潤しています。広々とした田んぼに、稲が青々と育っていました。近世の立派な町並みが残る通りを案内していただくと、後にこの地域が豊かに発展していったことが伝わってきました。

なんということでしょう。

最後に案内されたのは、大石堰土地改良区。地元の農家さんがお金を出し合って組織されており、水管理を行っています。おじさんは、その事務局長さんだったのでした。

さとびごころ38号 をプレゼントし(読んでもらえるかは謎ですが)、感謝を申し上げると
貴重な本をいただきました。「まあ、こいつらには読ませたろうか」と、思ってもらえたのかと解釈し、とても嬉しくなりました。

IMG_20190725_100303
  

これは明治36年に筑後川流域の農家に生まれ、東京帝国大学を経て福岡日日新聞に入社された林逸馬という方が、太平洋戦争の只中に当たる昭和17年に発刊された「筑後川」という本が原本です。それを、昭和17年生まれ、八幡製鉄に入社され新日鉄の関連会社の社長等を務められた三浦俊明さんが、現代文にリライトされたものでした。

500ページにわたる本で、まだ通読はできていませんが、自分たちの地域を自分たちでなんとかする、しかも自分一人のためではなく、自分も地域も救われるために大決断をした先人の取り組みについて知ることができそうです。軽トラについて行っては写真を撮って回った思い出とともに、ゆっくりと読ませていただきます。大石堰土地改良区事務局長、佐々木良友さま、ありがとうございました。

うわ、やはり長くなりそうです。次は、「竹組」」という竹林整備をビジネス化しようとしている会社を見学に。つづく



 
このエントリーをはてなブックマークに追加

編集部の阿南です。高知旅のつづきは、馬路村。あのポン酢で有名な馬路村です。

せっかく高知へ来たのですから、一目見ておこうと出かけました。高知市内から西へ、安芸市から山のほうへぐんぐん進むと馬路村へ着きます。木々に囲まれた景観の美しい加工場「ゆずの森」は、内部を見学できるようになっています。温泉も宿もあります。
DSC_0445

DSC_0441

人口800人。かつては林業で栄えた村が、このままでは衰退する、、、なんとかしなければ。30年前から農協が中心となって取り組んできたのは、どこの農家でも必ず庭先に植えていた、村民が大好きなゆずの特産化でした。
「ゆずの森」で、説明してくださった職員の本澤侑季さんは、「もともとをたどれば、農協が統合されるときに、それを拒み独自の道を進むと決めたことが発端です」とのことです。何をやってもうまくいかなかった頃の話から、ゆずドリンク「ごっくん馬路村」(馬路村公式飲料、ですって)が開発されて、ポン酢醤油日本一と呼ばれるまで、どんなふうに今日までに至ったのか、いろいろ話してくださいました。

HPもおすすめ。
https://www.yuzu.or.jp/user_data/dekigoto.php

09251357_59c88cc5b3c77


DSC_0440

独自の道を選んだ地方には、面白い取り組みが多いように思います。

村民のすべてがゆずを出荷する農家、というわけではないそうですが、ちょうど出荷の時期であったこともあり、村内で何度もゆずを積んだ軽トラックを見かけました。これを、「軽トラッシュ」というのだそうですよ。

村内のいたるところにゆずの木。村民があたりまえに愛してきた果樹。
馬路村のゆず

加工場は、日曜日のために稼働していませんでしたが、見学はできました。
DSC_0438

DSC_0435

馬路村のブランディングは、手書きの墨文字のあたたかさと、クスッと笑ってしまうユーモアが魅力。裏方でデザインを支える人の力を感じます。馬路村に共感し、寄り添って仕事をされているように感じられます。

「農山村は消滅しない」という本があります(小田切道美/著 岩波新書 2014年)。30代の女性の人口で消滅するかどうかを計る増田レポートが全てではないと。
「どっこい生きている」という底力は数値化できません。危機に面して、立ち上がる人がいる。そこに集う人がいる。そんな農山村がいくつもあります。危機のときこそ発動する力があるかのようです。


もう一度、本澤さんに会いたくなってしまっているので、また訪れたいと思います。

追伸

かつおは必須。
DSC_0464


このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ