個人的な用事もありで島根県へ行きましたので、二度目となる「和鋼博物館」へ行ってきました。
長文になりますが、よかったらお付き合いください。

安来鋼(ヤスキハガネ)というものをご存知でしょうか。ホームセンターの農機具コーナーに行って、鎌を見てみてください。少し高いほうの鎌には安来鋼が使われているというラベルが貼ってあります。高級な包丁も安来鋼です。また、奥出雲では年に数回の古来のたたら吹き製法により玉鋼がつくられ、日本刀の原料として全国の刀匠に配布されています。

島根県安来市には、日立金属株式会社の安来工場があり、ここで生産されるのが安来鋼。その前身で明治23年に設立された雲伯鉄鋼合資会社が、たたら吹き製法による鋼づくりをする技術を持っていました。かつての流通の拠点であった安来港に近い場所に、和鋼博物館があります。江戸時代には全国の80%を生産していました。その流れが今、日立金属株式会社安来工場につながっているのですね。


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たたらは、弥生時代には屋外で原始的な形で行われていたようですが、博物館にあるような砂鉄を原料とする和鋼(わこう)の製法は6世紀ごろに始まったそうです。「もののけ姫」に出てくるので知っている人もあると思います。中国山地には全国的にみても砂鉄の取れるところが集中しています。ですから、古くからたたら製鉄が行われたのも頷けます。

和鋼博物館には登場しませんが、島根県で知らない人はいないという名家として、750年続く田辺家があります。現在の田辺長右衛門さんは25代目(長右衛門は代々の当主が継ぐ名前です)、まだ40代という若さです。田辺家は和歌山県から島根に来てたたら製鉄を広めた家。製鉄には、くぬぎ・こならなどの雑木から作る大量の炭が必要(※)であるため、田辺家は次々と山林を買い、広大な山林王となりました。大正時代に500年続いた たたら製鉄業を廃業され、今は30社以上の企業・団体の役員をされています。

※ たたらと森林の話はこちら。
1回のたたら操業に必要な炭の量は約10~13トンで、これは森林面積にすると1ヘクタールとされます。たたらが盛んであった江戸時代後半には、年間約60回程度の操業が行われました。また、たたら炭を焼くにふさわしい樹齢は30~50年とされます。したがって、一ヶ所のたたらでは、1800~3000ヘクタールの森林面積が必要となり、中国山地の鉄師が所有する森林面積が膨大であるのは、たたら炭確保のための努力の結果なのです。(和銅博物館HPより)

さとびとしては、山林王には注目してしまいます。25代田辺長右衛門氏を紹介している こちらの記事もよかったらお読みください。

さらに、田辺氏が奥出雲に復活された 菅谷たたら山内(さんない=たたら製鉄する人たちの集落)では、廃業するまで使われていた高殿(たかどの=製鉄の炉があるところ)が復元されており、一見の価値があります。こちらは安来市ではなく、西南へ離れた雲南市(旧飯石郡吉田村)にあります。博物館ではジオラマで展示されている炉が、菅谷たたら山内では実物を見ることができます。先の田辺氏の記事にもありますが、たたら作りをする人は、たたら者と呼ばれる荒くれ者たちだったとのこと。

そして、砂鉄をとるための鉄穴流し(かんなながし=土中に2%しかない砂鉄を取るため、山を崩し、土砂を段階的に高低差のある水路を通して下流へ流す)をはじめ、炭を得るための用材の伐採や炭焼き、そして炉の設置(たたら操業の都度、炉を設置して壊します)やたたら操業そのもの(村下(ムラゲ)というリーダーのもとに行われます。酒造りでいうと杜氏のよう)、鍛冶にいたるまで、その仕事は過酷で厳しいものでした。そんな物悲しさも感じてもらいながら、中国山地が生み出したすぐれた鋼のことを知っていただけたらと思います。

博物館は撮影オッケーでしたので、写真をいくつかご紹介します。

今回、目をひいたのは炉の地下に膨大な量の炭が埋め込まれていることでした。炉の部分にばかり目がいきますが、炉が設置されている高殿は、地下に炭が埋め込れた大変な建造物だったのです。(地下は一度作ったら繰り返し使われ、地上の部分は操業の都度取り壊されました)

菅谷たたら山内


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